第8回 子育てを考える(3)~児童虐待(下)~
ストレス社会を生きる(日本海新聞) | 2002年3月5日
児童虐待とは、大人自身が十分な援助や承認を得ることができず、自己肯定に不足をきたした状態で子どもに接することから生じてきます。
そんな切羽詰まっている人たちの中には他者に援助を求めることも受け取ることも非常に苦手な人々が多数います。自分が援助されることがスティグマとなったり罪悪感を刺激されたりしてしまい、援助の申し出に攻撃的となったり、固く緊張してしまったりすることでそれを受け取れず、結果として余裕も生まれないのです。
《虐待の世代間連鎖》
子どもは自分がどのような存在であるかという知識や認識をもって生まれてくるわけではありません。周囲とのコミュニケーションの中で世界における自分の位置づけを形成していきます。虐待されて育つということは、余裕のない周囲が自分の振舞いに苛立ったり、無視をしたりする態度に日常的に触れるということです。そのような子どもが「自分の存在が世界に受け入れられている」とは思えません。逆に「自分は周囲にとって基本的に迷惑な存在である」という認知を形成します。そうなると他者に対して、オドオドしたり、他者の機嫌に敏感になりすぎたり、虚勢を張ったり、攻撃的であったりするようになります。当然他者に甘えたり助けてもらうことは苦手になります。無論、子どもの頃の周囲との関係のみが人の安心感を形成するわけではありません。その後の人生の中でも日々安心を貯めていくことが十分可能です。しかし他者からの手助けを得るのが苦手なままその人が親になったとき、育児という絶え間ない作業の中で容易に切羽詰まっていくのです。
そのような理由から虐待が目立つ親自身が元被虐待児であることもしばしばです。それがいわゆる「虐待の世代間連鎖」なのです。
《虐待を生みにくい育児システムの構築を》
虐待は余裕のない私たち大人の問題なのですが、全ての大人が余裕をもつのを待っていられませんし、そのような手法もありません。少なくとも現実的なのは核家族に依存した現在の育児システムの見直しです。今のように地域や多世代からの援助も期待できない状況では、親の危うさがダイレクトに子どもに影響してしまいます。そのような育児システムでは虐待を大量生産するようなものです。少なくとも一人の子どもに複数の大人が継続的に関わるようなシステム作りが急務です。とりあえず「保育」の拡充や位置づけの変革が必要でしょう。
とにかく私たち社会の育児に対する意識の改革が急がれます。「母親に任せておけばいいし、それができて当然である」という非現実的な男社会の甘えた考えは即座に捨て去るべきです。常に要求してくる子どもに対して力の乱用やネグレクトをせずに一緒にいられるとでも思っているのでしょうか。育児に親自身が追い詰められず、子どもに対する力の乱用を減らす(虐待を減らす)ためには、配偶者や周囲、社会が援助せねばならないのは当然過ぎることです。母親に全て押しつけるような甘えた考えの上に「俺も甘えさせろ」などという男が多すぎます。「そんな配偶者ならいない方がまし」ということが社会の常識とならないことには、現在の超少子化は改善しないでしょう。