第10回 小6同級生殺人が象徴するもの(10)~「閉じた学校」を考える~

《子どもの問題行動》

 近年、子どもが引き起こすさまざまな問題を論ずる際、その子の「人格」や「脳」に異常があったり、なんらかの障害があったのではないかという形での原因追及がよくなされます。しかしそのような議論からは有益な処方箋が出せません。その結果「甘やかすからいけない、罰則の強化が必要である」といった泥縄式の対策だけが先走ります。今回の事件に関しても、被害者はもちろん加害者にもその衝撃的な事件と釣り合うような「特異な点」は見当たりません。
 「子どもの問題」を考える際に私たちが忘れてはいけない大前提は「周囲が適切に関わっていれば子どもらの言動は必然的に健康になる」ということです。現在の「普通」の子がおこすさまざまな事件をみるにつけ、これは現在の子どもらがおかれている環境から必然的に生じてきたもので、誰が加害者や被害者になっても不思議ではない状況なのだと思います。
 子どもの問題を考える際に必要なのは、周囲が適切に関われる環境というのをさまざまなレベルで考えていくことなのです。

 

《問題の背景に「閉じた集団」》

 学校や家庭について、その不適切さの特徴を表現するために<閉鎖システム>という言葉を用いてきました。これは「外界との価値感の隔たりが大きく」「外部との交流が非常に限られている」という「閉じた集団」を意味します。もともとそのような集団内ではまともなコミュニケーションは困難であり、いじめ、虐待、差別、戦争などの温床となります。周囲とのギャップが明らかな無理の大きい論理で集団を維持しているため、スケープゴートや外部の敵を常に必要とするからです。
 特異な価値感を有する「閉じた集団」が集団内部におけるリンチや外部に対する犯罪行為を行ったとみられる事件は現在頻繁に生じています。また校内の殺人事件ほど目立たなくとも、凄惨ないじめ、恐喝、そして最悪の結果としての自殺などはしばしば生じています。また家庭内でも子どもや高齢者に対する虐待やドメスティックバイオレンスなどの深刻な拡がりの中で、子どもの対親暴力や親殺し子殺しなどに至る問題が生じています。私たちが最近見聞きする事件の大半は、学校や家庭などの集団の<閉鎖システム>化によって生じているという見方もできます。「学校」や「家庭」の<閉鎖システム>化の打破こそ、日本社会の緊急課題であると筆者は思います。

 

《学校が「閉じた」理由》

 学校も家庭もうまく機能していた頃の郷愁が払拭できず「神話」にすがりがちです。しかしたまたま機能していた時代があったからといって、学校や家庭が本来あるべき姿がいつの時代でも「かつてのようなもの」であるはずがありません。現在の学校的価値感が孤立し、閉じてしまった背景とはどのようなものなのでしょうか。
 高度成長時代のピーク期ならば、第二次産業人口も圧倒的に多く、良質な第二次産業従事者を大量生産するのに適した今の教育システムはうまく機能していました。決まった時間に決まったことを一糸乱れぬ「協調性」をもって行えるようになることは、この時代は社会も要求していたことなのです。
 しかしその後、高度成長がピークを過ぎた頃より、第三次産業に中心が移りました。「個性」が強調され他者との違いがその人の価値のように言われるようになりました。
 サービス産業を中心とした第三次産業全盛の時代ですから、「今の授業のやり方はまずいんじゃないか」「この問題を考えるのに必要な資料を情報開示せよ」位のことを学校や教師に対して要求できるような「生徒指導」をすべきでしょう。しかし多くの学校は「徹底した管理、指導」をして、第二次産業全盛時代の価値観を維持するという方向、すなわち「閉じた集団」に向けた舵取りを行ってしまったのです。