第9回 小6同級生殺人が象徴するもの(9)~「死なない」「殺さない」ために~

 自殺も他殺も「コミュニケーションの不能状態」で惹起されやすく、それは「閉鎖システム」で生じやすいことを述べてきました。地域共同体は壊滅状況であり、大人でも人とのつながりは仕事関係以外は非常に乏しくなっており、隣近所であっても家族構成も知らない家がほとんどであったりします。現代人は非常に限られた人間関係の中で生活しているのです。そのため家族や仕事上の人間関係、付き合いのある限られた近所付き合いの中でのトラブルがあると非常に追い込まれます。それでも大人はその気になれば離婚もできるし、仕事を変えることも転居することもできます。

 

《「閉鎖システム」におかれた子どもたち》

 しかし子どもはそうはいきません。子どもの意志で学校や担任、級友を選ぶことはできません。まして家庭を選ぶことはできません。そしてその中で教師や親のイメージに沿った行動を求められ続けます。教師や親が「自分」を見てくれているのか、自分が規格に合った行動をしているのを監視・管理しているだけなのかわからなくなっている子どもは大勢いるでしょう。神戸の児童連続殺傷事件の加害者の少年は自分を「透明な存在」と称しました。以下のように書いた加害少年に同世代の共感がかなり寄せられたのです。
 「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない(略)」

 

《「閉鎖システム」の犠牲》

 酒鬼薔薇少年の文章からは、自分というものが「義務教育的」な価値観らしかみられていないということに対する怒りと絶望がみてとれます。そしてそれは多くの子どもにとっても共感されているのです。これには時代の変化と「変化を拒否する学校・家族」との狭間で苦しむ子どもらの現状があるのです。
 詳細は次回以降にしますが、高度成長がピークを過ぎた頃より、第三次産業型社会に日本は移行しています。「個性の時代」などといわれるようになり、他者との違いがその人の価値のように言われるようになりました。しかし学校は第二次産業全盛時代の価値観を無理やり維持しようと必死になりました。当然、サービス業全盛時代の社会を生きる子どもらに過大な負担をかけてしまいました。不登校は増えつづけ、学校崩壊・学級崩壊といった現象も頻繁となりました。今の学校が今の第三次産業時代に合った形で設計し直されない限り、「崩壊」は続くでしょう。学校がそのように変化するまでは、ほとんどの学校は「閉鎖システム」の条件を満たします。

 

《「閉鎖システム」にしない工夫を》

 今回の事件でも、加害女児にとって重要な「息抜き」として機能していたと思われるミニバスケットボール部を「勉強に支障がある」との理由で辞めさせられています。帰宅のバス時刻と門限の関係で一人何もせずに寂しく帰る女児の閉塞感を考えると切ないものがあります。「閉鎖システム」においてはコミュニケーション不能に陥りやすく、いつどこで誰が殺人の被害者や加害者となるか、あるいは自殺してしまうか予測がつきません。私たちにできることは「閉鎖システム」の被害者となりやすい子どもを守るためのさまざまな工夫です。
 まず学校については「不登校」を保証することです。さらに学校を変えていく努力をしていくしかありません。家庭にしても「親権」が強すぎるのが我が国で子どもを救う点において常に支障になっています。学校や家庭以外についても、都会ならさまざまな場所で多様な人間との出合いの場がみつけやすい面がありますが、地方では選択肢が少なく、子どもたちは苦労しています。ネット空間の有益かつ安全な利用を含め、工夫は多数あるでしょう。