第11回 小6同級生殺人が象徴するもの(11)~子どもを窒息させる「家族神話」~

 家族についても学校と同様に「神話」が根強く、宗教的なまでに「かくあるべき」イメージで家族成員を拘束します。そのために学校以上に<閉鎖システム>化しやすいものです。

 

《中流意識を支えた家族神話》

 工業化社会と高度成長時代は大量かつ均質の住宅を「家族」に提供しました。その均質な「器」の中で、ほとんど全ての人が「中流意識」をもって生活していました。その中でいう「普通の家族」とは、ガンバリズムを行動原理として家族を律しようとする父親と、家事と次世代の企業戦士の養育を受け持つ母親、そしてその両親の期待に沿って頑張る子どもで構成されます。工業化(第二次産業化)の過程で都市部に若者が流出し、地域共同体は弱体化する一方で、都市部の周辺にはこのような核家族が急速に拡大していったのです。 当然そのような核家族が多数あるからといってそこに「地域共同体」が機能するわけではありません。孤立した核家族の空間の中で子どもたちは「お友だちとは仲よく、でも隣の子に負けるな、頑張れ」などと言われ、工業化社会に適した人材になるための養育をされたのです。
 このような「家族」が類を見ない経済の高度成長を支えました。そしてその経済的成功はバブル景気で頂点に達し、「24時間戦えますか」という企業戦士の凱旋歌のようなCMソングが流行しました。そのようなガンバリズムの成功が輝きを増す一方で、確実にその「影の部分」もより明瞭になってきました。イメージに合わない子どもを虐待して殺してしまう事件や「ダメな子」と烙印された子どもが親を殺してしまう事件などが発生しました。

 

《生きている実感の喪失》

 経済でも何でもそうですが、欠乏が明瞭なうちは「頑張り」による成果が非常に明瞭であり、自分の行動とその成果を結びつけ、「自分」というものを把握しやすいものです。しかし欠乏が消失してくると、何を頑張っているのかわからなくなり、生きている実感が失われます。衣食住に欠乏のない時代の欠乏は「生きている実感」です。生物学的感覚とは異なる次元での「自分」というものを求めます。人の中に埋没してしまわない、「人とは違う自分」というものが現代人には必要なのです。それは髪の色を染めるなどのファッションや小道具、ピアスやタトゥー(入墨)という形で供給することもできるでしょう。飽食時代において飢餓状態を維持しようとする拒食症や自責、自傷行為ですらこのような「必要」から生じています。
 子どもたちは親の期待に沿った形での頑張りを常に求められ、親が期待するイメージの範疇でのみ承認を与えられます。現在多くの子どもがこのような中で窒息しかけており、勝手な理想を押しつけてくる親や学校に抗議するように家庭内暴力や種々の問題を引き起こしています。そしてそれに対して親も学校も精神科医も「しつけ」たり「治療」しようとしているのです。

 

《親を殺せなかった加害女児》

 今回の加害女児も自由になるためには「(観念上の)親殺し」が必要であったでしょう。しかし親の価値感を拒絶するにも、その孤独に耐え得るだけの安心が必要であり、それには親の承認が必要なのです。彼女は親の意向に沿って行動するしかありませんでした。おそらく唯一の息抜きが「頑張って成果を実感する」ことができる部活動でした。しかしその大好きな部活動も「勉強の妨げになる」という親の考えによって辞めさせられ、ますます生きる実感が失われていきます。彼女の日記からバスケットバール部での活躍をいきいきと描く記述が忽然と消え、「この頃ヤバイッス。記憶が所々飛んでます」といった生きる実感を失った様子が記されるようになります。 
 家族や学校が「かくあるべき」とするイメージに追い詰められ、生きる実感を喪失している彼女でしたが、親も学校も「殺す」ことはできませんでした。しかし極限まで追い詰められた彼女が親友との行き違いと遭遇したとき、不幸にも誤った引き金が引かれてしまったのです。