第6回 小6同級生殺人が象徴するもの(6)~個人病理よりコミュニケーションに注目を~

《自殺や他殺をもたらすもの》

 人間が自分や人を殺すほど追い詰められるのは、どういったときでしょうか。自殺研究から見いだされた有名な社会学的概念に「アノミー(無規範)」というものがあります。これは他者とのつながりが断たれた状態であり、大規模なものは敗戦や革命などによって、社会的な大変革が生じた際に惹起されます。小規模な例としては、個人の極端な成功や失敗などによって周囲との関係がこれまでと全く違ってしまうような状況によっても生じます。いずれにしても自分をどこに位置づけていいのかわからないような状態です。「病気」のような個人的な病理を表わす言葉ではなく、「コミュニケーションの不能状態」を表わしています。筆者は自殺も他殺もこの「コミュニケーションの不能状態」から生じると考えています。

 

《病気だけでコミュニケーション不能には陥らない》

 動機が不透明な殺人事件が起こるたびに、TVや雑誌には精神科医が登場し「○○人格障害ですね。だからこういうことをやる」といった「説明」をするというばかげた現象がこれまで頻繁にみられました。反社会性人格障害、境界性人格障害、行為障害、アスペルガー障害、ADHD等など、一般の人が聞いたこともないような「病名 」が頻繁に用いられ、その「病気」のために事件が起こったかのような錯覚が生み出されました。
 そもそも人格障害という診断自体が「このような迷惑な行動傾向がある人をこう呼びましょう」といった程度のものでしかありません。従って、「人格障害だからこのような問題行動が生じる」といった言い方は循環論法であり、ごまかしでしかないのです。そして看過できない最大の理由は、そのような詐欺的な説明をすることにより、殺人という重要事件が引き起こされるに至ったプロセスに正しく焦点が当たらなくなってしまうことにあります。自殺や他殺が本人の個人的な病理のみでポンと発生することはありません。大切なのはコミュニケーションの不能と絶望に至った個人とその周囲との相互関係の経緯なのです。

 

《隠された本当の問題は》

 「人格」を考慮する際、社会や学校、家庭などの「周囲」も併せて考えねば無意味です。どのような人格傾向であっても「周囲」の受け入れが不適切な場合、「人格障害の診断基準」を満たすような状態に至ることは容易です。受け身で依存的な人格傾向が不適切な「周囲」と出会えば、ひきこもりや家庭内暴力などが生じるでしょう。同様に能動的で独立的な傾向の強い子どもならば、反社会的行動が増えるでしょう。
 本来良いとも悪いとも言えないはずの人格傾向が、不適切な「周囲」の対応により、不毛で実りの期待できないコミュニケーションの行動形式となって表われてきます。そしてますます「周囲」には受け入れられず、そのようなやり取りがエスカレートした結果、人格障害の診断基準を満たすような行動となるのです。
 個人の排除や治療の強制を指向するような「診断」など何の役にたつのでしょうか。そのようなレッテルを貼ることは、「素のままの自分を受け入れられる」という子どもや若者の感覚を危うくします。さらに社会や学校、家庭といった「周囲」の不適切さを温存するばかりでなく、さらなる管理や干渉に走らせ、事態をさらに悪化させてしまうのです。
 不可解な少年事件などが起こった際に大切な視点は、どのようにして加害者がコミュニケーションの不能と絶望に至ったのかということです。「周囲」のどのような考え方や振るまいのために、その子どもが排除されたのか、自分を自分として受け入れることが阻害されたのかを考えるべきなのです。