第7回 小6同級生殺人が象徴するもの(7)~子どもを追いつめる環境とは~

 この不幸な事件を「コミュニケーションの不能・絶望状態」の結果ととらえるべきであると前回述べました。コミュニケーションの問題である以上、本人の個別性だけに焦点を当てるわけにはいきません。今回の事件の当事者らも含め、現在の子どもたちの「周囲」について語らねばなりません。そこにこそ子どもを追いつめる原因があるからです。

 

《コミュニケーションを不能にする環境》

 コミュニケーションの不能・絶望状態が生じてしまいやすい環境とは、オウムのような「閉鎖システム」です。簡単にその集団を抜けたり距離をとる自由がなく、外界との価値観の隔たりが大きく、外部との交流が非常に限られているような状況です。このような場にいると、人はコミュニケーションの不能状態に容易に陥ってしまいます。このような場はいじめや戦争のような現象も頻発します。無理の大きい脆弱な「まとまり」をその内や外に「敵」をつくることで維持しようとする動きが生じるのです。
 不幸なことにこのような「閉鎖システム」は日本中至るところに存在します。その代表は「家庭」や「学校」です。

 

《「家庭」という「閉鎖システム」》

 特に「家庭」というところは、子どもにとってみれば「ここにいるのは嫌だ」といっても決して逃げられない場所です。またその家庭が「外界との価値観の隔たりが大きく」「外部との交流が非常に限られている」ような場であることもしばしばです。そうなればそのような家庭内で「児童虐待」「ドメスティックバイオレンス」などの問題が生じることは必然的なのです。
 そのようなあからさまな「問題」はない家庭においても、というよりも「家庭に問題がないことにするために」子どもが大きな負担を背負っていることもしばしばです。「問題児」「家族のヒーロー」「存在の気配を消しているような子」などを演じることで、子どもは家族の問題の隠ぺいとその延命に協力するのです。

 

《社会に不適応な「学校システム」》

 また「学校」も絵に描いたような「閉鎖システム」に十分なり得る空間です。これまでも何度も述べたように現在の学校システムは富国強兵時代、発展途上時代、第二次産業中心時代に都合のいい教育システムなのです。サービス業などの第三次産業中心となった現代社会において、「決まった時間に、決まった格好で、決まった行動」ができるように教育するという学校という場は明らかに異質な空間であり、極めて脆弱かつ無理の大きい「まとまり」であるといえるでしょう。
 「学校崩壊」「学級崩壊」は当然の流れであり、学校が社会に適応したものにならない限り崩壊は止まりません。「教育基本法の改正」「ボランティア義務化」など見当違いの方法でこの流れに対抗することはより一層の崩壊を招くだけです。
 いずれにしても社会に不適応な価値観を温存したまま「崩壊」に対抗している学校という場は、子どもにとっては危険な「閉鎖システム」です。当然、生徒同士や教師による「いじめ」など子どもの自己尊厳を脅かす出来事が頻発します。その危険さを緩和する現状における最も有効な手段は、「不登校」や「引きこもり」を家庭や地域が保証することでしょう。
 今回の事件の加害女児は、学校の人間関係で切羽詰まりながらも不登校をしていません。できなかったのです。必要な時に安心して不登校ができるような「保証」があったなら、それだけでも今回の事件は防げたのかもしれません。