第5回 小6同級生殺人が象徴するもの(5)~適応努力が「マトモさ」につながらない社会~

《現代社会が強制する「妄想」》

 感情や感覚、記憶などの統合性が失われた解離状態が事件と関係する可能性を前回述べました。しかし現代人の大半が大なり小なり同様の状態であると思われます。現代社会システムは多様で流動的な要求を常に人間に突きつけます。そして合理的かつ効率的にそれらをこなすことを迫ります。それに適応するためには、まずテンションを上げねばなりません。現代人は常に高いテンションを持続させ、なんとか「こなせている」間は充実していると感じ、その状態の維持を望みます。しかしそれを維持するためには、レースに集中させるための遮眼帯をつけた競走馬のように「視野狭窄」していなければなりません。「あっちの方が面白そうだ」「かわいいコがいるぞ」とか「疲れたな」などというレースと関係のないことに意識が向くと効率が落ちてしまうからです。
 しかしそんな効率や合理性が人間の幸福に直接結びつくはずがありません。この「レース」の価値自体も現代社会システムが作り出した幻想にすぎないのです。市場価値においてより高価な家に住んだり、高価なものを食したり、高い地位につくことが、単純に私たちをより幸福にすると考えるのには無理があります。一昔前に比べ子どもたち勉強しなくなったのは、無理やり勉強することに価値が見いだせなくなっているからであり、親がこだわっているような学歴社会幻想に付き合えないからです。
 季節が春夏秋冬とめぐるように、人間は生まれ、成長し、成熟期を迎え、老い、そして死を迎えます。それは社会においても同様です。もはや私たちの住む社会はかつての成長期の社会ではありません。「無限に成長する」「常に成長せねばならない」と考えるのはアメリカ的な妄想に過ぎません。

 

《子どもたちを追いつめているもの》

 高いテンション、思い込みの強さ、視野狭窄、思考停止などの条件が揃えば揃うほど特に学校的な価値観の中では「適応的」になりえます。納得しなければ動かないような思慮深い子どもがいたら、今の学校では無事に卒業できないでしょう。置かれた環境と自分の思考や身体感覚とをきちんと同期させつつ生活できる「マトモさ」は、今の社会では「不適応」をもたらしかねないのです。子どもも大人もマトモさを維持しようとすれば当然「効率」は落ちます。今の子どもたちが気の毒なのは、目に入ってきたものに興味を示したり、過剰な要求にペースが乱されて立ち止まったりした場合、「自称マトモ」な大人たちに「何をしているんだ」と叱責されてしまうことです。おとなしく思考停止や視野狭窄を行える子どもはともかく、マトモさを維持しようとする子どもは引きこもらざるをえません。そこで大人たちがその引きこもりを必要なこととして保証してくれれば問題ありませんが、それもしてくれない場合、子どもたちは非常に危うい状況におかれてしまいます。自分の感覚をもつ余裕もないままに、常に自分を追い立て、責め続けるような状態になります。自傷的な行為も増えます。そこで徹底的に自分がダメだと思い込まされてしまうことで、本格的な引きこもりや自殺などのリスクが増えてしまうのです。
 加害女児は学校・家庭的には「問題のない子」である一方でおそらくそのような危険な状態にあったと考えられます。親友やネット空間での交流がおそらく唯一の支えだったのではないでしょうか。それがささいなきっかけでその親友がネット空間で自分を否定した(と感じてしまった)ことから、一気に危機的な精神状態に陥ったのかもしれません。