第108回 幸福の行方(8)~アノミーへの処方箋(下)~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年12月8日
《戦後教育の問題点》
戦後の民主主義教育が問い直されています。最高の教育成果があがったとされている者でも、その場の雰囲気に抗しきれず地下鉄にサリンをまいてしまう医師になったり、エイズや肝炎ウイルスを含有する薬の流通を黙認する判断を下す官僚になったりするという恐るべき事態を引き起こしているからです。まさに「死刑になるのが嫌という理由しか殺人がいけない理由が見当たらない」という「良心不在」の状態に大人も子どもも陥っているのです。
人同士の連帯の中に自分がいるという明らかな感覚があるとき、人には「良心」というものが機能します。良心の不在とは「人同士のつながりの輪の中に自分がいることの自明性」が欠如していることから生じてきます。場当たり的な人間関係の中での場当たり的な行動基準しかもてず、生活全体を貫く「善悪の支柱」が不在であるという問題は、戦後教育を受けた私たち全員が共有しているのであるといえるでしょう。
《教育基本法改正論議の不毛》
教育基本法改正に向けた動きとそれに対する反対意見などが最近報道されています。改正論者には現状に対する苛立ちがあり、教育勅語時代への郷愁があります。また若い世代でも少なからぬ賛同があります。確かに「大いなるものへの一体化」は「アノミー」や「脆弱な自尊心」に対する特効薬です。「崇高な国家」への一体化を自尊心の糧とし、行動原理の基礎にすることは、これまでの時代においては確かに有効でした。
しかし人々が概ね共通する欠損を抱え、一つの方向に向けてまとまれた時代はもはや過去のものです。食料、医療、福祉、モノなどが充足し、多様な価値観が交錯しています。地域や学校、会社といった共同体の自明性は急速に失われ、国家や家族といったものですら例外ではありません。
このような人間関係の流動化が激しくなった時代における自尊心の持ち方として、「大いなるものへの一体化」というものが適当といえるでしょうか。少なくとも旧態依然とした国家観をそのままにして若者世代に「国を愛せ」と力んだところで現実には何の変化ももたらさないでしょう。無論「戦前に戻るな」「愛国心教育反対」といった素朴なサヨクの主張も現状を何も変えません。
《本物の民主主義教育を》
筆者の現在のところの結論は、本物の民主主義(正確には「リベラル・デモクラシー」)を日本において実現するための教育の実践しか解決法はありえないというものです。自由主義(リベラリズム)とは人々の権利を公的権力から守ることであり、民主主義(デモクラシー)とは人々が公的権力に参加することです。リベラル・デモクラシーとは自由主義(リベラリズム)と民主主義(デモクラシー)の両立です。
日本人の多くは、民主主義というものがすでに欧米で完成されていて、それが戦後アメリカによって日本にもたらされたと考えています。しかし選挙や議会政治らしきものがあれば民主主義国家というわけにはいきません。民主主義とは「完成」されたものではありえず、常に理想を求めて工夫を重ねる「プロセス」なのです。今の日本のように官僚という「創造のない伝統主義装置」に全てを依存しているような国が「民主主義国家」であるはずがありません。与えられたり、強制される民主主義などありえないのです。
これからの教育は「素直に勉強をして、言うことを聞いていれば悪いようにはしないし幸福になれる」といったものではいけません。そのような無責任に一つの価値観に当てはめようとする教育が、「一億総お役人化」とでもいうべき悲惨な事態を招いたのです。
「これが幸福だ」と与えるのではなく、自らの幸福を試行錯誤の中から探し出すことのできる姿勢を形成することこそ、価値観が多様となった時代が求める教育の責務でありましょう。そしてより豊かな自己実現のために必要な他者とのコミュニケーション能力(自己主張、相互貢献、他を侵害せずに共生するルールの体得など)を「リベラル・デモクラシー」の原則から教育していくのです。
このような教育における方向性の合意と実践が広がれば、間違いなく「良心」は息を吹き返すでありましょう。人間関係において「排除」「抹殺」といった端的に共生のルールに反する行為は行われなくなり、人々が自己否定的な考えに精神衛生を害されることも減るでしょう。自分も他人も尊重せねば幸福になりえないという新たな時代の常識を教育してこそ「新たな公共」が実現するのではないでしょうか。