第107回 幸福の行方(7)~アノミーへの処方箋(中)~

 少し前のことですが、テレビの座談会で一人の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」という発言をしてずいぶんと話題になりました。この高校生はけんか腰であったわけでもなく、ごく普通に率直な疑問としてこの言葉を発したのです。
 この発言ほど現在の子どもたちの受けている教育の問題点と本質を表わしているものはないのではないかと思われます。「殺人」という他者の人権をこの上なく蹂躙するという犯罪行為について、「死刑」という外面的な拘束しか思いとどまる理由がみつからない。すなわち内面的な理由(良心)は稀薄すぎて抑止力にならないと言っているのです。この上なく恐ろしいことです。このような「良心のかけら」も教えられない教育になり果てた我が国の教育に再生の可能性はあるのでしょうか。

 

《親も子もアノミー》

 良心とは内面化された父性です。ことの善悪を区切る父性原理は人にとってなくてはならないものであり、規範の喪失は「アノミー」(無規範・無連帯)という最悪の状態に人を陥れます。日本の規範は共同体の道徳という形をとって機能してきました。確固たる共同体の力こそが、そこにおける規範を家族内にもちこむ父親に権威(オーソリティー)を与えていたのです。
 しかし現在の状況では「父親の権威」はその後ろ盾を失っており、会社だけで通用するようなローカルな規範を振り回されても、妻子にとってはピンとこない話でしょう。頑固に言い張られた場合はかなり迷惑でもあります。結果として「うるさくない、やさしい父親」が求められ、増加しました。家庭内での父性は消失しました。しかもそれは家庭内だけでなく、教育においても同様でした。かくして親も子も等しく「アノミー」が蔓延したのです。

 

《戦後民主主義教育の弊害》

 戦後の民主主義教育とは一言でいえば「みんなつべこべいわず受験勉強をしろ」ということにつきるでしょう。どんな子に対しても同様です。全員に同じ事をさせるのが「平等」であるという恐るべき勘違いがまかり通っていたのです。
 また学歴社会とは受験勉強で階級闘争をやるような社会であり、子ども同士のつながりはズタズタになり「アノミー」に陥ります。非行にでも走れば、一緒に悪いことをする仲間をもつことでアノミーが一時的に解消しますが、耐えに耐えて「いい子」をやり続ける子はさらに危険です。突如、親に対する暴力が噴出したり、拒食過食などの嗜癖問題も出現します。
 現在、親のほとんどには本当の意味での「オーソリティー」などありません。すなわち子どもにとって憧れたり、惚れたり、同一化する気になれない、できない対象でしかないのです。そのような相手からの一方的な命令による労働とは「奴隷労働」を意味します。多くの子どもにとって受験勉強は奴隷的な強制労働であるのです。
 このような受験勉強に焦点づけた知識の詰め込みと「みなと同じ格好で同じように振舞うことを要求する」ことが果たして民主主義教育なのでしょうか。「民主主義」そのものに対する恐るべき誤解があることは否めません。
 次回は現在の「アノミー」に対処し得る民主主義教育について考えてみたいと思います。