第101回 幸福の行方(1)~お金と幸福~

 ある本に、インドでビジネスを展開するために現地でインド人の優秀なビジネスマンを雇う上での苦労が書いてありました。給料を上げれば上げるほど働かなくなる、というのです。優秀なので別の会社から給料をつり上げて引き抜くと、今度は稼ぐ日数は減らしてもイイヤということになり、休みが増えるというのです。
 日本人の感覚でいうと信じられないことですし、インド人がみなそのようであるわけではないでしょう。しかしこの話が本当ならば、彼らはとても幸福であると思うのです。私たちより魂は平安で、自分の感覚にとって心地よく生きることに不安がないことが推測されます。

 

《エコノミックアニマル》

 霊長類位のレベルになると比較的簡単に「コイン猿」が作れるということです。コインがいつでも好みの食物などに交換可能であることが条件付けられた猿は、コインを得るための苦労を厭わなくなります。その苦労や苦痛の方が、それによって得たコインにより交換可能なモノから得られる快感より大きいかもしれないとしてもです。
 私たちは中央銀行発行のコインや紙幣に対し「コイン猿」と同じような行動をしています。幼い頃からカネの有効性を繰り返し体験学習し、より効率よくカネが得られるためにいい学校いい会社へと説かれ…といった具合です。
 今でも仕事のために家族と共に住めない、エネルギーを全て使い果たしてしまい家族と楽しめないといったことは日常茶飯事です。 身体や自尊心が破壊されるような職場であっても不安のためにしがみつきます。あるいは夫婦関係ですら「自己感覚で心地よい」のではなく「就職がもたらす安心感」と同様なのかもしれません。

 

《宝くじが当たったら幸福か》

 「年末ジャンボが当たったらナー」というセリフはよく聞きます。まず当たらないので心配いりませんが、もし当たったとしたら果たして人は幸せになれるのでしょうか。
 筆者も当たったことがないので想像でしかないのですが、自己感覚の「心地よさ」に沿って生きている人(先に出てきたインド人のような人)は、おそらく有益に使えると思うのです。そしてそうでない人は「良いとされている」さまざまなモノを自己感覚に沿わない形で過剰に与えてしまって、かえって満足から遠ざかることもあるでしょう。あるいはさらなる「安心」をめざしてより多くのカネを生む投資に走り、いつまで経っても真の安心のない泥沼にはまり込むかもしれません。空腹でもないときに「高級な料理」を提供されても満たされませんし、だからといって「さらに高級な料理」に走っても、自己感覚が伴わない限り真の満足には決して至りません。
 人に大金が転がりこんできたとき、あるいは貧乏のどん底に陥ってしまったとき、その人は単純に幸福になったり不幸になったりするのではありません。その人の幸福観が試されるのです。「自分」というものとの付き合いが上手な人は、たくさんのカネを得ても自己感覚をこえた「過剰なモノ」を与えることなく、自分を満足させていけるでしょう。またひどく貧乏な時期も自己感覚を満足させる生活様式が可能となるでしょう。しかし自己感覚に立脚しない人が大金を得た場合、さまざまな「過剰症」でバランスを崩すであろうことは容易に予想できます。そしてひどく貧乏になった場合、その人はただただ不幸であり続けるでしょう。