第100回 人間関係を考える(10)~公共性を考える(下)~

《ボランティアとは何か》

 英語でいうボランティア(volunteer)とは「自由意志」を意味するラテン語を語源としており、「志願者」とか「自発的にする」といった意味を持っています。
 しかし日本語ではどうでしょうか。筆者の印象では英語とは全く逆のニュアンスをもつような気がするのです。すなわち普通以上に「自分を捨てて」「集団に寄与する」行為が「ボランティア」と称されています。だからこそ「私にはとてもできない」とか「やっている人はエライ」とか「偽善的だ」というイメージになり、結局「自分とは無縁」になってしまうのです。中教審の「小中高生にボランティア活動を義務化する」という今回の答申は、こういった魅力に乏しいボランティア像を拡大し、「(学校を卒業したら)自分とは無縁」にするだけではないでしょうか。

 

《ボランティアの危うさ》

 ボランティアとは「決められたことをする」わけではないのが特徴です。その範囲も限界も何も決まっていません。仕事でもなければ、みながそうしているから…という理由でやるわけでもありません。その行為に伴う結果は全て自分が引き受ける自己責任が原則です。これをやるにはかなりの不安がつきまといます。また日本のようにコミュニケーションによる調整ではなく、同調圧力で秩序を保っているような場においては、日常的な枠組みから外れた行動を目にすると不安になり、周囲がその活動に対しさまざまなことをいう傾向にあります。
 筆者が高校生の頃かかわったあるボランティア活動がありますが、イベントが近づいてポスター作りなどの作業が連日続いたところ母親の機嫌が日に日に悪くなっていきました。「そんなことばかりやって…勉強が先でしょ」という日本全国お決まりの言葉を浴びせられていました。他人に気を遣うことを日頃いっている親も自分のイメージを外れた行動には不安になったのでしょう。
 似たようなことは会社員がボランティアをする場合にも起こり得ます。洪水被害の復旧作業に難渋する住民の様子をテレビで目にし、動かされて休暇をとり、現地で集まった人たちとともに復旧作業を手伝い、充実した気持ちで帰ってきたとします。しかしその彼を待ち受けるのは「この忙しいときに何がボランティアだ。自分の仕事もロクにできないくせに」「素人が行ったって邪魔になるだけだろ」などという周囲の胡散臭そうな目であったりするのです。

 

《ボランティアの魅力と新たな公共》

 管理された集団の同調圧力の中で「周囲から浮かないように」緊張してきた日本人にとって、「ボランティア」はアブナイものである一方で、非常に魅力的なものとなり得ます。ボランティアの魅力は自由意志によって何かに取り組むことで、予想もしなかった新しい関係性が生まれ、そしてそれが発展していくことです。
 ささいなきっかけで始めたことが思わぬ広がりをみせたり、黙々とした作業の中で充実した時間を過ごせることは、通常の「経済」では換算できぬ満足があります。教師に指導されて行うボランティアなど、校庭の草むしりのようなものであり、この時代に必要な人と人との繋がりを豊かにする効果はありません。「新たな公共」とは自由意志で動く人間のネットワークとそれらをうまくコーディネートするシステムの話であって、「ワガママいわず人様のお役に立つことをしろ」と上から命令し、自由意志をつぶすことではないのです。