第99回 人間関係を考える(9)~公共性を考える(中)~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年9月1日
《上から強制する秩序が「公共」なのか》
前回、「小中高生にボランティア活動を義務化する」という中教審の答申について触れました。今回の答申で判明したことは、文部科学省や中教審にとって「ボランティアとは滅私奉公」であり、「自己犠牲が公共性の基本」であると考えているらしいことです。また、強制されたワークをこなしているうちに精神性も高まり、それに喜びをみいだしてくる…などと考えているらしいことも明らかになりました。教育において子どもたちにボランティアの窓口を開くことと強制することとは全く意味が違います。自分が秩序の管理者(支配者)であるような気分の人というのは、カルトの幹部でもお役人でも同じように発想するもののようです。
公共性とは従来までの国家や組織を維持するために必要な「滅私の精神」なのでしょうか。そのように考えた場合、現代のような多様な価値観の中でどのようにまとまりがつくのでしょうか。まとまりがつかないからと徹底管理に走られても困ります。盗聴法や住基ネットなどで、データを蓄積され結合されたらたまったものではありません。霞ヶ関は管理教育が極まった頃の職員室のような所になるつもりなのでしょうか。最近の動きには背筋が寒くなります。
《「家族」「国家」の今後》
しかし多様な価値観が存在する時代に入った現在、このような国民を管理指導するような「お上」というイメージの国家観は変わっていかざるをえないでありましょうし、変えていかねばなりません。
これから個人がその自己実現と幸福のために多元的に同時所属するグループは、これまでとは比較にならないほど多様かつ流動的なものになるでしょう。たとえば「家族」というものにしても、今後はこれまで国が認定していなかったような同性同士やさまざまな形のコミューンなどが「家族」として承認され、必要な保護を受けられるべきだということになっていくでしょう。このような多様なグループが行う活動と、それに伴うコミュニケーションが他者を侵害したものとならないような司法的な役割や、価値観の異なる他者とつきあうルールというものを教育を通して訓練するという役割は最低限「国家」に求められるでしょう。
《公共を唱える中教審の反公共性》
そのような視点から述べるならば「ボランティア体験を強制してでもやらせれば公共性が育つ」などという根拠のない暴論を全ての小中高生に押しつけるという行為は、「新たな公共」をつくるどころか公共性に反するものとして「国家」が罰するべき行為といえましょう。そのような真っ当な「国家」というものは私たち自身が自覚をもってつくっていくべきものであり、現在のお役人に期待してよいものではありません。
私たちが現代社会で構築すべき「新たな公共」とは、自分や他人の実存を圧殺して秩序を保つことではなく、多様で異なる価値観の他者と共生するための流儀をわきまえていることではないでしょうか。その意味では旧世代も若年世代もその認識とスキルにおいて不十分に過ぎる状態であり、今後の教育の大きな柱とすべきなのです。そのような視点から考えた「ボランティア」や「公共」について次回もう少し触れたいと思います。