第98回 人間関係を考える(8)~公共性を考える(上)~

《義務化される「ボランティア」》

 平成14年7月29日に、中教審(中央教育審議会)から「青少年の奉仕活動・体験活動の推進方策等について」の答申が出ました。小中高生にボランティア活動を義務化するというものなのですが、驚かれた方も多いのではないでしょうか。お役所が統制しようとする場合の常ですが、これについても「飴と鞭」で明確に誘導しています。進学や就職に有利になるような積極的評価を各方面に求めるということです。当然のことながら、「対価を期待せずに行う活動」と定義しながら「進学・就職に有利」というこれ以上ない対価をぶらさげてやらせることにどのような意味があるのかという疑問が出ています。そのような反発をみこしたように「自発性は活動の要件でなく活動の成果」と宣っています。すなわち、最初は強制的でもやっているうちに自発的にやるようになるというわけです。発想としては「3か月も自衛隊にいけば、親もびっくりするほどシャキッとする」と語った前の文部科学大臣と同じではないかという印象もぬぐえません。

 

《「公共を上からつくる」という発想》

 いずれにしても動機がわからない少年犯罪の増加や、公共の場での傍若無人さ、職場での「使いにくさ」などが旧世代を苛立たせており、それが「新たな公共」というものを強調する今回の中教審の答申につながったと考えられます。しかし「公共性の創造=ボランティア活動の強制」という発想自体はあまりにも安易といえます。このような形で「公共性」や「集団における規範」が形成されるとは到底考えられません。
 今回の答申における根本的な誤りと筆者が考えるのは、「古き良き時代にはあった“公共性”が今は失われた」という旧世代的発想です。旧世代のイメージする公共性というのは、以前述べたように「みんな一緒」の目的や価値観を共有していた時代のムラ社会の道徳(規範)です。連帯が維持されているが故に規範が力をもっていました。
 戦争が強い国になるには全体主義的でなくてはなりません。すなわち個人は全体を構成する部分であり、個人の行動はすべて全体の発展のために行わなければならないとする社会です。日本もかつて戦勝や富を目指して邁進している時は全体主義国家の色彩が強くありました。しかし戦争は終わり、経済的達成を果たした今、かつてのような形で「まとまり」を維持することは不可能です。成熟段階に入った社会には、必然的に多様な価値観が生じてきます。かつての「まとまり」を形成したサブシステムである我が家族、我が母校、我が町、我が国などにしても、自分は「たまたま」所属しているにすぎないという感覚になってきており、自分の所属が自明かつ恒久的と考えるような共同体はほとんどありません。そのような状況の中で、現在のさまざまな共同体への所属を大前提として、その維持発展に寄与する行動を積極的に評価するという「上からの指導による公共」など砂上の楼閣です。このような形で育てた公共心など状況が変われば容易に霧散してしまい、今以上に「旅の恥はかき捨て」的な幼稚かつローカルな「仲間内だけの公共」を助長するだけでしょう。
 協調性を重視し、個人の選択肢を著しく狭めて秩序を保とうとする教育がさまざまな形で崩壊しつつある今、悪あがきのように賞罰付きで「新たな公共」などと訴えてもしかたありません。結局「みんな仲間」「みんな一緒」を押しつける教育が時代錯誤になり、弊害の方が大きくなってきただけなのです。現在の多様な価値観が存在する社会で構築すべき「新たな公共」を考えていく必要があるのです。