第97回 人間関係を考える(7)~「狼少女」を生まない教育(下)~

 狼少女やカルト教団内で養育された子どもたちを例に引いてきましたが、将来生活する社会と極端に隔たりがある環境で成育した場合、そのストレスは非常に大きなものとなります。現代日本の社会的ひきこもりの多さ(その数実に100万人!)一つみても、これはもう社会構造上の問題としかいいようがありません。私たちは幼少時期から今の社会を生きる上で困難を抱えてしまうような家庭生活や教育を受けてきたのです。もはや個々の家庭の良し悪しの問題をこえており、現在のさまざまな社会システムを見直すしかない状況といえます。

 

《「みんな一緒」教育の弊害》

 義務教育は6歳からですからそれまでは他者との交流はあまりありません。そしてその義務教育に入ったとしても、やはり戦争システムの残骸のような「みんな一緒」教育が待ち受けます。そこで養われるのは「協調性」という名の、周囲の雰囲気と顔色をみて行動する習慣です。
 そのようなことが役に立ったのは戦争や経済戦争などで国民全体が同じ目標に向かっていたときに限られます。そのような時代が終わり、価値観が無数に存在する時代になった時、「みんな一緒」を強調するような教育をしたらどうなるでしょう。子どもたちにとっては「みんな一緒」にできることが可能な少数とそうでない大多数の他人というのが世界となります。
 そうなった時に生じるのが、仲間以外の人間との付き合い方の問題です。なぜならそのようなことに関して教育も訓練も全く受けていないのです。公共の場で傍若無人に振舞う人間が多いのも、ささいなきっかけでよく知らない他人を「仲間」と思い込み、さまざまな犯罪に巻き込まれるという事件の多さにしても、「みんな一緒」教育の弊害であるといえるでしょう。
 しかし最も深刻な弊害は、自己肯定感が不安定になることです。「みんな一緒」教育においては、個人の尊厳はその人に安心をもたらすような「確かなもの」に依存しています。しかし今の時代に国家や企業、学校や学歴、地位やお金といったものを「確かなもの」として依存してよいものかどうか。その答えは明白でしょう。しかし今なお学校や家においては「とにかく言われる通りにしていれば悪いようにはならない」という言い方がなされているのです。

 

《魚を与えるより、釣りを教えよ》

 自分という存在に対して安心感をもっていることほど、精神の平安に必要なことはありません。大切なのはその持ち方です。無理の多い自己肯定の手法は自分にとっても辛く、他人にも迷惑をかけるものです。自己肯定のために必要な「よい自分」というものの中に「仕事完璧」「家事完璧」「子どもは優秀で素直」といったものが必要となってしまうと、まず倒れます。本人が倒れないのならこの人のイメージに振り回された子どもが病むでしょう。
 このように本人の自己感覚が全く顧みられない「体裁」に依存する自己肯定の手法は今の時代おすすめできません。最も大切な自尊心が、リストラや疾病、子どもの成績一つで揺らいでしまうのでは苦しすぎます。
 「魚を与えるより、釣りを教えよ」という言葉があります。これを現代の子育てや教育に当てはめるのならば、「ささいな失敗を避けさせるより、“何とかなるさ”という感覚をもたせよ」という事になるでしょう。試行錯誤により獲得していくこの種の安心感こそ、変化の時代に必要なしなやかな自尊心といえるでしょう。