第96回 人間関係を考える(6)~「狼少女」を生まない教育(中)~

 前回「狼少女」の苦悩について述べました。狼少女やカルト教団内で養育された子どもたちの真の苦痛は、「通常の社会」に触れてから始まります。
 私たちは生活の仕方や方向性を言葉や文字によって決定しているわけではありません。ほとんどの行動は無意識に行われます。無数の習慣から成り立っているともいえます。幼い頃からの生活上の体験によって、そのような環境に適応的に生きることのできるような知恵を無意識に蓄積しているのです。それは精神分析でいう超自我(スーパー・エゴ)であり、「内なる親」であり、「良心」であります。そのような無意識の蓄積と今現在の社会生活環境とのギャップが大きくなってしまうと、そのストレスによる苦痛はひどいものになってしまいます。
 現在100万人にも上ると推定される若者世代を中心とした「社会的ひきこもり」、中高年を中心に深刻さを増す自殺者の増加などの問題は、私たちの社会生活における苦痛の証拠となるような数字です。これらはどのようなところから生じているのでしょうか。

 

《なぜ人間関係がつらいのか》

 社会的ひきこもりの若者たちはどうして人とのつながりに大きな緊張をもってしまうのでしょう。自殺する人はどうして人とのつながりを信じられなくなってしまったのでしょう。ひきこもりにしても自殺にしても、人との連帯に安心感がもてない、つまるところ自分という存在に安心感がもてないところから生じています。
 人間の幸福にとってどの時代も不可欠なのは他者とのコミュニケーションです。スムースなコミュニケーションにはある程度の自己肯定感が必要であり、その自己肯定感はコミュニケーションから蓄積されます。
 ひきこもりや自殺者がこだわっているものはさまざまです。さまざまな理由で自分自身に不安を抱え、コミュニケーションに支障をきたしています。
 このように彼らがこだわる学歴や資格、職業やお金、容姿やさまざまな世間体というのはいったい私たちの幸福にとってどんな役割があるのでしょう。つきつめて考えてみれば、それらはブランド品のバッグと同じであり、人生にそれなりの彩りを添え、日常を生きやすくする「コミュニケーション・ツール」でしかないように思われます。あくまでそれらは手段であり目的ではないのです。

 

《大なるものに依存する自尊心の危うさ》

 しかしながら私たちの幼少時代からの家族、学校などを舞台とした生活の中で、この種の倒錯が生じやすいことは否めません。私たちは手段に過ぎないものに一喜一憂し、それを目的にしてしまっています。そして「目的」たる他者とのコミュニケーションをないがしろにしているのではないでしょうか。だからこそコミュニケーションの小道具1つが不足していることに慌ててしまい、不安になり、ひきこもったり、生きていけないような気になってしまうのです。
 このようにカネや世間体など不安定なものに自分の最も大切な自尊心をかけてしまうということは危険きわまりないことです。しかしこのような脆弱な自尊心の持ち方は私たちが過ごす家族や学校、職場といった場での日常の中で学習されてしまったことなのです。
 変化が激しい現代をしなやかに生きていける自尊心を育てるにはどのようにしたらよいのでしょうか。次回も考えていきたいと思います。