第91回 人間関係を考える(1)~なぜ人を殺してはいけないのか~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年6月23日
「なぜ人を殺してはいけないのか」「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」
1997年、神戸須磨区での事件の後、某ニュース番組で数名の少年たちと識者らが座談会をやっていたときに一人の高校生が発した質問が各方面に衝撃を与えました。
この質問の際に同席していた識者たちは虚を突かれ、ほとんどマトモに応えられない状態だったようです。それはそうでしょう。こんな問いが来るとは誰も思いませんし、考えたこともなかったでしょう。その後、どうやらこの質問が人々の「ツボにはまった」らしく、雑誌で特集が組まれさまざまな識者が自分なりの回答をよせたりするなどかなりの反響が続きました。
《普通の高校生》
少年から発せられた「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがこれだけのインパクトを持ち得たのはなぜでしょうか。さまざまな理解し難い少年事件に対する不安が高まっている折でもあり、まるで事件を起こした少年自身に「開き直られた」ように感じた人々が多かったからかもしれません。自らの不安感を払拭するためにも是非ともこれを論破しておかねばならないという気持ちに大人たちをさせたのでしょうか。
なお、その質問を発した少年というのは、反発や世の中への憎悪をあらわにした様子はなく、奇を衒ったような印象でもなかったようで、実際にその少年と話した識者の一人は「きわめて明るくて健康的な印象の高校生であった」と語っています。どうやら彼は単なる大人への反発から発したのではなく、あっけらかんとこの質問をしたようなのです。それにしてもほとんどの大人が虚を突かれたこのような問いがどうして普通の高校生から発せられるようになったのでしょう。
《仲間を殺してはいけない》
「人を殺してはいけない」という価値観が人々に共有されたことなど歴史上一度もないという社会学的事実はまず認識しておかねばなりません。ただし「仲間を殺してはいけない」というのは常にありました。
多分あの高校生の質問は「仲間ではないものをなぜ殺してはいけないのか」という風に言い換えられるかもしれません。チームを組んで人に暴力を奮うことを生きがいにしているような若者たちなどでも、その仲間うちでは「やさしくて、いい奴」であったりします。
どのようなものを「仲間」と認識するのかということと、「仲間以外」の他者に対する振舞い方にあまりにも社会性が欠けてきているということが、旧世代と現代の若者との違いかも知れません。そうかといって旧世代の方がコミュニケーションスキルがはるかに上かというとそうではありません。「これが常識だ」と価値観の違う相手に押しつけることばかりしている人も多いからです。