第90回 「自己感覚」を生きる(8)~宗教音痴の日本人~

 相対的なものでしかない「意味」を絶対視し、「善きこと」に振り回されて狂気のような過剰とアンバランスに悩む現代人の特徴について前回まで述べてきました。「意味」を考えてしまう人間にあって、このような状態に陥らないための工夫を考えなければなりません。その工夫には宗教的な知恵もあります。

 

《宿命論的予定説》

 イスラム教の聖典コーランは明日のことを語ることを禁じているそうです。もし語るときは「インシャラー(アッラーが望むならば)」と言葉を添えるのだといいます。「明朝8時にお会いしましょう」と約束した後に、この言葉を付すのです。相手が約束に遅れても怒ってはいけません。なにせ相手は「アッラーが望むならば」といっているのです。したがって遅刻の原因が目覚まし時計をセットし忘れたことにあったとしても、それは「神の御心」であってアッラーがお望みでないのでそうなったのだから、相手を怒ってはいけないのです。
 果たしてこの感覚にどれほどの日本人がついていけるでしょうか。筆者も最初これをきいたときには「日本でこれをやったら袋叩きにあいそう」と感じただけでしたが、最近は非常にうらやましく思います。このくらい天に下駄を預けることができたらどんなに楽かと思うのです。このような宿命論的予定説のような発想をすることは、私たちにとって非常に不慣れなことです。

 

《パワー信仰とご利益主義》

 日本人に馴染みの仏教にしても「こだわりから自由になる」ことが最重要事項でしょうが、「パワー信仰」が身についた私たちは、自分自身や周囲までもコントロールして目的の達成をもって安心しようと常に力んでいます。だから宗教も葬式や結婚式の付属物か、自分の目的達成のためのご利益を期待したものになります。「これだけのお布施をし、労力を使うのだから神様にもこれだけのことをして欲しい」という具合です。これではまるで神も仏も「便利屋さん」扱いです。こんなご利益主義の宗教観(?)をベースに、「神様なんかに頼らない」「神様なんかいらない」という態度が生じてきます。その一方で、人々が抱える拠り所のない不安を利用して高額の金銭をむしり取る悪徳宗教家が幅を利かしているのです。
 いずれにしても私たちは拠り所のない不安のために過剰に力んで自分や他人を振り回しているようです。そして自分の力の範疇にないことすら、コントロールしようと躍起になっているのです。

 

《自己感覚を生きる》

 筆者も典型的な日本人であり、本格的な宗教的雰囲気に触れることなくこれまできました。そのためか自分の範疇でないことをついつい考えてしまい悩みが尽きません。できれば自分の範疇にないことは「天にお任せ」して心を煩わさず、迷ったらサイコロでも振ってそれを受け入れ、あとは自分の感覚を信じて淡々と物事をこなしていけるようになりたいものです。
 私たちはイライラや不安、焦りの中にいるとき、自己感覚を見失います。そのようなときの欲求(たとえば欲する食べ物や食べ方)は、どう考えても体のバランスをとるようなものとはなりません。しかし安心の下での自己感覚ほどバランスをとる上で信頼できる指導者はいないでしょう。心安らかに自己感覚に沿って生きることのできる工夫は「善きこと」に汲々とする以上に大切なことなのではないでしょうか。