第92回 人間関係を考える(2)~旧世代と若年世代の人間関係~

《「みんな仲間」の世代》

 旧世代は「みんな一緒」「みんな仲間」というのを曲がりなりにも信じられていました。我が母校、我が社、我が国…という感覚があり、「何らかの目標」に向けて共に歩んでいるという感覚を共有していたのです。
 農耕民族的な感覚を前面に出しての他者とのコミュニケーションにはメリットもデメリットもあります。異なる価値観の存在というものを理屈ではわかっていても実感できないのが農耕民族です。「同じ人間、話せばわかる」という感じで他者と接しますので、ある意味ではフレンドリーです。しかし基本的に「異なる価値観」というものを認めていませんので、一方では強引です。つまり「みんな一緒」になるためのコミュニケーションなのです。旧世代のコミュニケーションの「こまやかな他者への気遣い」と「異なる価値観を基本的に認めようとしない強引さ」はこのようなところから生じていると考えられます。

 

《仲間以外は「人」にあらず》

 時代は下り、多くの先進国で「戦争」「飢え」「経済的達成」というものにも切迫感がなくなり、かつての「食わねばならない」というような自明の価値観というものが失われました。そして多様な価値観が世の中に溢れ、若い世代になると絶対的な価値観などないことが明白になりました。「みんな一緒」などという感覚はもはや失われ、違うのは当然と認識されます。だから気の合わない連中と「同じクラスだから」といって無理に付き合うのは辛いし馬鹿馬鹿しいのです。
 仲間はそれぞれ独自に開拓します。茶髪にしたり、独特の言葉遣いを共有したり、好きなアーチストやらキャラクターやらを話題にするなどし、何らかの接点となる価値観を自分が有していることをアピールすることによってコミュニケーションを行っています。携帯電話やメールの普及により、「仲間」を維持する労力は下がったこともあり、常に高いテンションで仲間とコミュニケーションしているというのが現代の若者です。無駄なことを…という旧世代のしかめ面を尻目に彼らのコミュニケーションの活発さはとどまるところを知りません。しかし当然「ボクはいいよ」と回避してしまう者の数も相当数に上りますので、コミュニケーションの活発さに関しては二極分化しているともいえます。
 このような若い世代のコミュニケーション活動の最大の欠点は「仲間」以外の者に対する態度にあります。旧世代が「異なる価値観」の存在を認めていないので、「みんな仲間だ」感覚の気遣いを他者に示すのに対して、若い世代は仲間以外の者に対しては、「見れども見えず」状態で、まるでそこに他の人間がいるということを全く意に介していないような態度をとってしまうことでしょう。電車内での大声の携帯電話や化粧など平気という彼らにとって、車内の人間は気を遣うべき対象ではないのです。
 「なぜ人を殺してはいけないのか」「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」という疑問があっけらかんとでてくるのはこのような感覚からです。私たちは価値観の異なる「他者」に対するコミュニケーションの在り方を彼らに示せていないのです。

 

《「他者」との共生に向けて》

 「みんな仲間だ」の旧世代と「仲間以外は透明人間」の若年世代で共通するのは異なる価値観をもつ仲間以外の「他者」との付き合いに問題があることです。その認識を持つことがまず解決の第一歩です。そして現代のコミュニケーションはいかにあるべきかということを真剣に議論すべきでありましょう。それこそが今後の教育の在り方やさまざまな社会システムを検討する上での大前提となるのです。