第54回 「いじめ」を考える(上)

 イジメというのは広くわれわれ社会に浸透している現象です。実際、全く経験のない人などいないでしょう。どこの世界にもどのような年代にも存在します。
 イジメというのは非常に大きな問題であり、差別や虐待など、近年改善が叫ばれるようになった問題の多い人間関係の在り方の基本型です。これを考えることは、人類のコミュニケーションの在り方を考えることであるといっても過言ではないでしょう。
 イジメとは、力の付与されている者がその立場を利用して、そうでない者を攻撃することです。上司が部下に、先輩が後輩に、古株が新人にといった具合です。
 最近になって大人から子どもへのイジメは児童虐待として、男性から女性へのイジメはドメスティックバイオレンスやセクシュアルハラスメントなどとして問題が認識され、改善に向けた努力がなされ始めています。さまざまな差別問題についても同様です。

 

《いじめを必要とする人》

 イジメは、いろいろな見方ができる現象です。まず、なぜ加害者がそんなことをするのかというと、自身の力の確認とそれに伴う安心感が得られるということが挙げられます。むろんそのような形で「安心」しなければならないということ自体が、その人の安心感の乏しさを露呈しているといえます。
 虐待と同様に、イジメをやる人とやらない人がいるわけではありません。だれもが加害者になり得ますし、切羽詰まった状態や自己不全感の高まりに伴って、個人のイジメ的なかかわりが増え、程度がひどくなっていきます。

 

《いじめ被害者》

 一方、被害者の特徴というのが特にあるわけではありません。
 たまたま上司や先輩、先生や指導者、何らかの多数派の人の中などに危うい人がいると被害に遭ってしまうからです。
 例えば、学童のクラスにしても、グループの多数派とは異なる部分を持つというだけで、イジメの標的になる場合がいくらでもあります。成績が良くても悪くても、教師から褒められ過ぎても、しかられ過ぎても「少数派」としてイジメの標的になる可能性があります。
 つまり被害者の努力で、被害者となる可能性をすべて排除するのは不可能といえるのです。また不幸なことに、イジメ被害にさらされていると被害者の自己肯定感が傷ついていき、そこを加害者につけこまれてさらに傷ついてしまうという悪循環に陥ることがしばしばです。

 

《傍観者》

 イジメにおける立場として「傍観者」というのがあります。イジメとは基本的には一対一の関係といえますが、イジメの繰り返しによってそのグループ内部は加害者の同調者と傍観者に色分けされます。
 イジメに関する国際比較などを見ると、どうも日本におけるイジメはこの傍観者という立場を取る比率が高いようです。
 もともと善悪に関する父性原理が主張されることが少なく、雰囲気が支配する社会であることが関係するのかもしれません。
 この傍観者というのは、ある意味で非常に緊張した立場です。なぜなら、雰囲気に合わせて上手に「傍観者」をやっていないと、今度は一転してイジメの標的となる可能性があるからです。
 よく「傍観者はいけない!」という一喝を教師や親から受けて「その通りだ」と思った素直な生徒が、意を決してクラス内のイジメに異を唱えたところ、今度はすさまじいイジメの標的にされるといったことが起こります。それどころか、そのイジメには当初イジメられていた生徒本人まで加わっているようなことすらあるのです。
 われわれは、このようなイジメ問題に何ができるのでしょうか。どう認識し、何を決意せねばならないのでしょうか。その現実的な処方箋を考えていきたいと思います。