第48回 父性なき社会(4)
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年8月4日
《現代の「理想家族」の苦しさ》
1996年の文京区湯島の事件は、暴力とは無縁の温厚な父親が懸命に築いた「理想家族」で起きました。その父親は「不在の父」などではなく、幼いころから子どもに親身にかかわるような父親でした。
ところがその息子が中学生になったとき、両親や姉に暴力を振るい始め、そのため母親と5歳上の姉は別居、父親だけが残りその暴力に耐え続けていました。
息子の暴力のつらさを訴える父親に対して精神科医などの専門家は、「それもひとつの技術と考えて頑張ってください」などという、およそ的外れな助言をしました。そして暴力の限りを尽くされた父親は、結局金属バットで寝ている息子を撲殺したのです。
前回も触れましたが、暴力とは現状のシステムに対して問答無用の変更を迫るという革命的な意味を持ちます。
革命とは、望まないがんじがらめのシステムから自由を奪取する手段です。
しかし、家庭内暴力児の両親の多くは、子どもに対して暴力的な強制を行ってきたのではありません。ほとんどの親は「このようにした方が良いのではないか」と思うことを懸命にやってきただけなのです。
そのような50代を中心とする方々が自分の子どもからの暴力被害に遭い、誇りと自信を失って自分を責める様子には同情を禁じ得ません。
子どもたちはどうしてそんなにも「がんじがらめ」な感覚を持ってしまったのでしょうか。父親はどうしてそこまで追い詰められながら耐えていたのでしょうか。
《どうして私たちは「がんじがらめ」なのか》
現在の家族の特徴。それは核家族化と少子化です。戦後の高度成長から人口が大量に都市部に流出し、地域共同体の機能が損なわれ続けてきました。そして企業のような機能集団が共同体の役割を担い、学歴で階級分けするようなシステムになりました。
「いい学校、いい会社、いい人生」という教義に基づき、核家族という下位システムの役割は、子どもという次世代を「より質の良い企業戦士」として養育することになりました。
戦後、地域共同体が弱体化し、親の多くが「学歴信者」となって有形無形のプレッシャーを子どもにかけました。
そのほか、「人から嫌われないように」「皆と仲よく」「でも負けるな」「普通以上になれ」などというメッセージがはやりでした。いずれにしても人同士の連帯のベースとなるようなメッセージではありません。
受験地獄が叫ばれ、同世代の連帯を分断してしまう偏差値教育を是正しようと、制度の改正を何度繰り返しても一向に改まりません。親の方としてもそれ以外にどのようにしたらよいのかというイメージが持てなかったのです。
そして家族の中での自分の役割から逸脱せぬように「普通に」生活していることが非常に息苦しくなってきたのです。それが世間的な「理想」であればあるほど変更が難しく、ますますがんじがらめの苦しさが増すという状況が生じました。そのしわ寄せは、最も弱い立場の子どもたちに当然向かったのです。