第49回 父性なき社会(5)

 前回まで東京・文京区湯島の事件に触れながら、「理想家族」に執着することの危険さについて触れました。
 現代日本の家族の中で用いられている「このようにすべきだ」というルールや語られる理想というのは、実はあまりにも狭い世界にしか通用しない論理なのかもしれません。それに従って生活し、何世代にもわたる幸福と秩序がもたらされたというような裏づけがあるようなものではないのです。
 それでも時代の速すぎる変化の不安から、人々は根拠があいまいであるにもかかわらず多大の代償を強いる「理想」に血道を上げます。

 

《理想と罪悪感》

 学歴、仕事、体重などに加え、人からのさまざまな評価に敏感になり、安心できる理想を目指して親自身も頑張っています。親自身の不安は、当然子どもに投影され、さまざまな理屈をつけて強制される「理想」の数々に子どもはがんじがらめになります。
 不安を起こさせるような問題は「ないこと」にされ、問題のない理想のわが家という舞台を演じる役者のように家族の各人がなってしまうのです。
 そのようにして出来上がった理想家族の舞台は、「もうやめた」と簡単に降りることはできません。なにせ「理想」に反発するのですから大変です。
 大抵の場合、大きな反発が生じるのは、罪悪感や自己不全感に耐えきれなくなり、自己懲罰的な気分に包まれて退行したときになります。

 

《理想を求める父親》

 文京区の事件の被害者となった十四歳少年の家庭内暴力はこのようなものではなかったかと思います。東京大学の近所の家、東大卒の父親、しかもその父親は徹底的な非暴力主義者で温和で人望の厚い人でした。
 その父親が長年勤めた出版社を何らかの理由(外面的には辞める理由はない優秀な編集者でした)で辞め、そして精神科ソーシャルワーカーなど慣れない援助職に転職し、そしてやはりそこでも行き詰まりを感じ始めていたころ、少年の家庭内暴力が始まっています。
 全く問題がなかったように見える父親にも絶えざる不安と自己不全感が付きまとっていたようです。この父親自身、人一倍不安が強く、自分を安心させるさまざまな「理想」を求めていたのです。

 

《父性回復のカギは》

 人間関係の秩序と安定の枠組みを与える「父性」。その父性が歴史上類をみないほどの激しい変化の中で揺れています。その揺れの不安の中でさまざまな「理想」を実現しようと努力し、理想でがんじがらめになった家で起こった家庭内暴力と殺人は、私たちに大きな問題を提起しているのです。
 連帯が規範をもたらし、規範が連帯をもたらすという原則をもって考えるとき、現在の父性欠如(無規範)を回復する方策とは、何らかの形での連帯の形成でありましょう。
 実際、さまざまな共通の話題をもって人々はつながりを形成しています。もっと大規模かつ安定した連帯をつくるには何をカギにしたらよいのでしょうか。
 子育てや教育などをカギとして人々がつながりをつくっていく場を形成できるかもしれません。虐待問題や少子化問題を政策的に考える場合に筆者がいつも強調するのは、一人の子どもに複数の大人が責任感をもってかかわることができるシステムです。
 このような育児や教育を通して大人同士の連帯を形成していくことは可能なのではないかと筆者は考えます。