第47回 父性なき社会(3)

 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが普通の少年から発せられる。絵に描いたような「理想家族」から親子殺しあいの家庭内暴力が噴出する。このようなことが頻繁に生じるようになりました。不気味なのはそのような事件がおこる家庭と私たちの属する「普通の家庭」に決定的な相違を見いだせないことです。いったいどうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。

 

《理想家族に起こった悪夢》

 平成8年に東京文京区で2年間にもわたる息子(14歳)の家庭内暴力の被害にあっていた父親(52歳)がその息子を金属バットで殴り殺す事件が起こりました。この事件が注目されたのは、その父親が教養ある温厚な人物であるだけでなく、「不在の父」などとは程遠いほど子どもに親身かつ優しく関わってきたからです。この世代に多い円満な「マルキスト」であったこの父親は、およそ「暴力」とは無縁の人物であり、ある意味で時代の理想を生きた人です。このような父親が熱心に作りあげた「良い家族」から何故に親子殺し合いの修羅場が生じてしまったのでしょうか。「時代」の流れに沿って真面目に生きてきたその父親にあからさまな落ち度は認められません。しかし結果はこれ以上ないような父性(権威、規範、秩序)の乱れを呈してしまったのです。

 

《家庭内暴力児を生む理想家族》

 筆者の臨床経験から言っても、家庭内暴力児の多くは元「良い子」です。良い子が生まれる家庭というのは、やはり「文句のつけようのない」家庭であることが多いです。よくあるパターンとしては、父親は50代前後で温厚かつ高学歴、名の通った会社の幹部だとかをやっている。母親も近所で高学歴をいかしてボランティア活動などで地域の中心的な活動を担っている。いずれも非のうちどころがない。当然外部からの非難はありません。しかしそのような「理想的」な状態でないと家族中が不安になってしまうため、「波風たたせない」 という不文律が唯一の規範であったりします。
 このような「規範」ほど人間らしさを圧殺するものはないでしょう。人間の感情も感覚も抑え込んでロボットのようにならない限り、「良い子」を続けることは困難となり、どこかでそれは爆発するでしょう。このような家庭における暴力は革命的な意味をもつのです。
 それでは今を忠実に生きる「普通の人」にこのようなことが生じる時代とはどのようなものなのでしょうか。次回からは昭和戦後史を紐解きつつ、連帯と規範の視点から検証してみたいと思います。