第33回 嗜癖の時代(2) アルコール依存症
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2001年4月21日
前回は嗜癖(しへき)を生み出す「パワー信仰」などの現代背景についてふれました。今回はアルコールなどに依存するというのはどういうことなのかということについて、さらに詳しく述べてみたいと思います。
《酔うということ》
酔いはさまざまなものをもたらします。他者との壁を低くし、普段は言えないようなことを言いやすくします。学童期のようなスーパーマン幻想も顔を出し、誇大的になり「俺はスゴイ。この俺様を評価できない社長はアホだ」というようなことを口走ります。
さらに酔いが深まると「僕ってカワイソウ」と自己憐憫(れんびん)に入り、乳児のように退行し、「他者にすべてお任せ」という状態になります。酔いとはまさに「赤ん坊返り」の過程といえます。
このような「酔う」という行為をどんなに弊害が生じてもやめられなくなる、すなわち嗜癖となるのは、とめどもない不安や寂しさ、自責や怒りなどの不快感情のためです。そしてそれは自己の存在をそのまま受け入れるということの困難な状況を反映しています。
《対人恐怖と二重人格》
“いい人”という姿勢を崩したくない、人に馬鹿にされたくない、嫌われたくない、立派な人物だと尊敬されたい…そのような思いは誰にでもあります。
しかし自己不信が強く、自分の存在に安心感をもちにくい場合、“いい人”であるためにヘトヘトになってしまったり、誇大な自己イメージにこだわるあまり何もできなくなってしまったり、といったことが生じてきます。いつも力が抜けず、自分の中に他者には出せない思いや感情が山積します。そのような「恥や罪」をたくさん抱え込んでしまっている状態がいわゆる「対人恐怖」です。嗜癖者とは対人恐怖者でもあります。
また自分の中に自分が認められない部分が大きい人は二重人格的になります。「普段は神様のような人」と周囲から評されるような嗜癖者も少なくありません。絵に描いたようないい人や、デキる人と受けとられている一方で、嗜癖が進行していたりするのです。
《嗜癖からの回復》
嗜癖とは対人関係や自己肯定感に関わる問題です。その回復は対人関係や自己肯定感の持ち方の回復といえます。回復には自分のことを誠実に語り、それを評価なく誠実に聞いてくれるような場の存在が不可欠となります。
かつてアルコール依存症が回復不能の病気であると信じられていた時代、アルコホーリックス・アノニマス(AA)というアルコール依存症者の会ができはじめ、続々と回復者を輩出しました。アルコール依存症者にとってAAこそまさにそのような場であったのです。
嗜癖とは単純に善悪だとか根性の問題ではありません。正常と嗜癖者を明確に分ける境界も存在しません。正常異常の問題と捉えることは本質を見失います。
嗜癖とは私たちに共通する自己存在の不安と生きづらさの問題なのです。たまたまアルコールに走れる環境と体質の人がアルコールを乱用しているに過ぎません。私たちはさまざまなものに「嗜癖」しているのです。