佐賀バスジャック事件(5)

《裸の王様》

少年は家でも学校でも、ネット上でもいつも虚勢を張っていました。しかし、その虚勢は級友たちにあっさりとへこまされていました。それに対し、カッターで切りかかったこともあったようですが、ほとんどの場合、彼の怒りは内向していました。そして引きこもりながら幻想のパワーに酔い、その酔いを妨げる「現実」に怒りを募らせていきました。

少年は何におびえてそのような虚勢を張っていたのでしょうか。そもそもなぜ「まじめないい子」でなければならなかったのでしょうか。

「優等生でなくてはいけない」「負けてはいけない」など、現在の社会から受け取るさまざまなメッセージです。もちろんそれは絶対的なものではなく、「一つの考え方」「一つの物語」にすぎないものです。しかし彼にはそれらを相対化する余裕はありませんでした。選択肢を見いだせないまま追い詰められ、虚勢を張り、それを周囲にへこまされることによって、「そのままでは人に認められない自分の正体」を突き付けられた“裸の王様”のような苦しみを味わっていました。そしてそのように自分の存在を軽んじた社会に対する一発逆転を狙う気持ちが大きくなっていったようです。

《オモチャのピストル》

虚勢は鎧(よろい)です。少年は生きていく上で、重く不自由だとしてもそれが必要であったのです。彼の環境が特殊だったわけではありません。私たちはみな矛盾するメッセージが交錯する世界に生きており、それらのひとつひとつが“ホンモノ”であると思い込むと、鎧をつけすぎてつぶれそうになるのです。「人と仲良くしろ」「でも隣の子には負けるな」「いい学校に入らないと幸せになれない」「強くなくてはいけない」。さらに女性では「今どきの女性はキャリアが大切」「男に負けるな」「でもかわいい女でなくてはいけない」「いい妻、いい嫁、いい母でなくてはいけない」「体重は軽いほどいい」などのメッセージ(脅迫?)が周囲に氾濫しているのです。よく考えれば、これらはみな“オモチャ”のピストルです。でもその”オモチャ”に私たちはかなり真剣におびえていて、それに対しき几帳面に対応していないと何ともいえない不安が生じてきます。

現在の社会においては猛獣や飢餓などのホンモノの危険は絶滅しており、真剣に脅おびえるべき機会はほとんどないはずです。それなのに私たちはなぜ「成績」や「体重」などの“オモチャ”に右往左往するのでしょうか。それは、マスコミや周囲の人間を介して受け取るメッセージの数々が「親の期待」を象徴しており、それを達成するかしないかが「親の承認」の代わりとなっているからです。学校の成績や体重計などいろいろな尺度は「親の目」として機能します。それゆえに体重計の針が目標ラインよりどちらに動くかで、世界中に受け入れられていると感じたり、世界に自分の居場所などないように感じたりするわけです。

そこには以前述べたように、今の日本人の多くが抱える「承認不足」という問題が深く関係しています。承認不足が深刻な人ほど、強迫的にこの泥沼にはまりこみます。バスジャック少年もまた、その渦中にいたゆえにあれだけの虚勢を張っていたのです。

《幸福の知恵》

一方、私たちが気持ちよく勉強やダイエットができたりするのは、どのようなときなのでしょう。それは最初からその「無意味さ」を納得しているときです。それらのメッセージがはっきり“オモチャ”であるとわかっていながら「きゃー」と騒いで楽しんでいるときです。体重など本当はどうでもいいと思っている。しかし生活に少し張りをもたせたい。そのために「ダイエットしなきゃ」というのを口実に心地いいテンションを生活に持ち込み楽しんでいるようなとき、私たちはそこそこ幸福です。同じように私たちは、勉強もスポーツも節約なども楽しむことができます。つまり、それ自体が目的であり、体重や勝敗、貯金額などはそれらの結果でしかないのです。そのようにさまざまな価値観の「無意味さ」を知りつつ、その上で「脱力」せずに心地いいテンションの日常を送るコツの会得は、ホンモノの危険が消失した現代社会ではとても大切な知恵なのかもしれません。

山陰中央新報連載(平成12年9月30日付)より