第12回 子育てを考える(7)~人事を尽くしすぎて天命を見失う~
ストレス社会を生きる(日本海新聞) | 2002年6月4日
万物は生まれ、成長し、老い、そして死んでいきます。無数の人間たちのこれまでの営みが、土に還ったように、これからもそれが繰り返されます。無論、地球自体ですら無限のものではありません。
人間はふわふわとした羊水中の壁のない無感覚な世界から押し出されたその瞬間から、他者やさまざまな現象と出合い、そのような外部との接触によって生じる自己感覚を目安に生きていきます。自らのバランスに必要なものは欲求として感じられ、あるものを取り入れたり、避けたりします。食べ物が必要なら食欲が、休養が必要ならば「疲れ」などの感覚が生じます。そのようにして個体はバランスを維持します。そのような個々の集合体である外界もまた常に変化を抱えながら平衡状態を保っています。
《「意味」という病》
そのような世界で生きている私たちに必要なことは何なのでしょうか。どんな「チカラ」なのでしょうか。現在の私たちはさまざまなハイテクを駆使できるパワーを得ました。そしてバランスの良い生き方になったのかというと必ずしもそうではありません。私たちは「意味」に翻弄されるようになったのです。さまざまな「意味」を自分や他者に押しつけ、「こうでなければならない」と無理をしています。そのために自然物としてのバランスをとる上で必要な「自己感覚」を無視しているのです。
そのような結果、たとえば拒食症のように、たくさんの食べ物に囲まれながらの餓死のようなことすらありうるのです。このような社会と、本当に食べ物がなくて餓死することがあるような状況と、果たしてどちらが不幸なのでしょうか。「意味」というものに追い詰められ、実存を窒息させるという病に私たちは陥っているのです。そして子育てを通して、それを次世代に垂れ流しているのです。
《「失敗」に敏感な子どもたち》
子どもはさまざまな試行錯誤を通して、等身大の自分が心地よく生きていく生き方を模索していきます。しかし実際は大人による無思慮な「意味」の押しつけが、あまりにも子どもたち呪縛しています。そのようにして高まった不安のために、子どもたちは成功や失敗というものに敏感になってしまい、必要な試行錯誤ができなくなっているのです。
勝手な「意味」で子どもを脅迫して、あとは「頑張れ」の繰り返し…という子育てでは、「反乱」が起こらない方が不思議です。
《奴隷的生活の見直しを》
子どもが自分の感覚で自由に試行錯誤する気になる環境を与える余裕が私たちにどれだけあるでしょう。現代人の多くは、例えばカネという「意味」に縛られたエコノミックアニマルであったりするからです。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。しかし実際はさまざまな「意味」からくる不安によって「人事を尽くしすぎて天命を見失っている」のが今の私たちなのです。前向きに「天命に下駄をあずける」という気になるには、自分の存在についての安心感が不可欠です。そのような安心感が、自由、すなわち自分に由って生きるという状態の支えになるのです。
私たちが子どもの声をきけるようになるということは、これまで「都合上」無視してきた自分の声をきいていくことに他なりません。私たち大人は、どうでもいい「意味」の奴隷になっていないか、子どもたちを奴隷にしていないか、見直してみる必要があるでしょう。