第8回 小6同級生殺人が象徴するもの(8)~加害女児の孤独~
“止まり木”求め さまよう心II(山陰中央新報) | 2004年11月24日
思春期は家族らと一心同体のように生きてきた子どもが、自立への離陸を開始する時期です。思春期を特徴づける最大のものに「性」があります。性とはお客さんのようなものです。自分の中に他人が訪れてくるような出来事であり、異性への関心とともに自分自身に対する大きな関心が生じます。そのようにして家族から自立した「自分」を獲得していきます。その過程は孤独と絶えざる不安がつきものです。
今回の事件では加害者、被害者ともに11歳という思春期のただなかにいました。しかし思春期というだけでは「コミュニケーションの不能」から殺人を犯すまでになった加害女児の絶望的な孤独を説明できません。今回はもう少しその点を考えてみたいと思います。
《閉鎖システムが増幅する「異質への過敏性」》
前回、家庭や学校というものは「閉鎖システム」になりやすいことを述べました。「閉鎖システム」というのは周囲とはギャップの大きい価値観を抱え、その維持のために異質な分子の排除に一生懸命な空間です。外部との交流は制限され、異なった価値観の混入に過敏に反応します。脆弱なまとまりを延命するため、内部では「いじめ」、対外的には「戦争」が生じやすくなります。その内部の構成員は自分の外面や内面の「異質性」にも非常に敏感になります。
このような閉鎖システムに思春期の子どもが置かれることは、自分の「異質性」に対する過敏性が増幅され、大変な苦痛を伴うと予想されます。
「学校」も「家庭」も加害女児にとっては決して逃げられない閉塞した空間であったようです。閉鎖システムにおいてはそこの価値観に合わない行動をすることは重罪です。以前には女子高生の校門圧死事件などもありました。このような遅刻指導に伴う事故が生じる原因は決して一教師の問題ではありません。最近でも学校どころか「塾に行き渋った」ことをきっかけに7歳の子どもを母親が絞殺するという事件が起きています。これなどをみると「死に値する」重罪なのだと感じます。
学校や家庭がそのような閉鎖システムであったからこそ、加害女児は自分が死ぬか相手を殺すかという状況にまで追い詰められていても登校という「適応行動」を続けざるを得なかったのです。
《バトル・ロワイアル》
加害女児は「バトル・ロワイアル」を模したオリジナルの小説をホームページに載せていました。その内容は、国が任意の中学3年生のクラスに同級生同士の殺し合いを命じ、最後の一人だけが家に帰れるという状況の中で、美少女が次々と級友を殺し、その勝者となるというものです。しかしその後もまた戦いに巻き込まれることを示されて物語は終わっています。
加害女児に限らず、「バトル・ロワイアル」は子どもたちに人気がありました。またそれを模して小説を書いた子どももかなりの数に上るようです。彼らの必要性はどのようなものなのでしょうか。
一瞬たりとも気の抜けない生活、拭い難い相互不信、そのような基盤は「バトル・ロワイアル」も今の子どもたちの実際も変わりないのかもしれません。国家が決めた必然性のないクラスの中で「友達」関係を維持するために、懸命の努力をしているのが現在の子どもたちです。そのような状況の彼らにとっては、「バトル・ロワイアル」で描かれた状況の方がかえってスッキリしていると感じるのかもしれません。
「バトル・ロワイアル」の勝者になっても、真の安心が訪れるわけではないことは、加害女児もわかっていたことが伺えます。しかし小学6年生の彼女にとってその状況から独力で脱出することは不可能であったでしょう。