第76回 「パワー」から「コミュニケーション」へ(7)~パワー信仰の時代と嗜癖(下)~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年2月24日
《自助グループと回復》
男女を問わず「パワー」に依存した安心感の持ち方(生き方)が、パワー自体の目的化につながってしまいやすいこと、それが人の安心感を危うくしていくこと、その生きづらさの悪循環をあからさまに象徴するものが「嗜癖」であることに前回触れました。
かつてアルコール依存症が回復不能の病気であると信じられていた時代がありました。そのような嗜癖治療の暗黒時代において、「パワー信仰」のメッカであり、嗜癖の大量生産国でもあるアメリカで異変が起こります。アルコホーリックス・アノニマス(AA)というアルコール依存症者の自助グループが出現し、そこから続々と回復者が輩出されたのです。
そこは「飲酒をやめたい」という願いだけが入会資格です。アルコールに対する自らの無力を認めることからスタートします。それは「パワー信仰を捨てる」という決心に他なりません。匿名性にこだわり、外部からの寄付も受けず、外部に意見を出すこともしないといったパワー競争を徹底排除するための英知がそこには凝集されています。金銭や地位や名誉といったヒエラルギーに関係するものは一切退けられているのです。
そのような場で、ただ誠実に自分のことを語り、誠実に人の話しに耳を傾けるという体験が彼らに変革をもたらしたのです。
《平安の祈り》
AAを始めとするさまざまな形の悩みを抱える人々の自助グループにおいて、「平安の祈り」というフレーズがよく用いられます。以下のようなものです。
「神様、私にお与えください。
変えられないものを受け入れる落ち着きを、
変えられるものを変える勇気を、
そしてその2つを見分ける賢さを。」
ここでいう“神”とはその人その人の中にある「身をゆだねることのできる存在」であり、自助グループなどで用いられる場合は宗教上の神を指しません。自助グループの中で、誠実に他者の話に耳を傾け、誠実に自らのことを話した後に、瞑目してこれらの言葉を唱えることがよくなされます。筆者はこのフレーズの中に人の悩みを解決していく原則が示されているように思います。
自分の意志でコントロールできる範疇にない対象と格闘して自暴自棄になることは最も解決に遠い方法です。解決に必要なものは、根性ではありません。自分の責任で変えられるものと変えられないものを見分ける冷静さと勇気に他なりません。
《コントロールからコミュニケーションへ》
上司や部下、配偶者や子ども、そして自分自身ですら“理屈通り”に動くわけではありません。もし理屈通りに動かない(動けない)ことに悩んでいるのなら、それは“理屈”の方に問題があります。他人や自分は奴隷でもロボットでもないのです。
自分の存在、感情など全ては“自然現象”です。出し方の問題はあっても、生じてくること自体に良いも悪いもありません。基本的にそのような“自然現象”と「付き合っていく」という姿勢がないことにはコントロール能力の不足に嘆く緊張の日々が続きます。変えられるものを変え、変えられないものを受け入れながら、自分と他者の主張を尊重しコミュニケーションによってお互いを侵害しないで共生していく決意と工夫はこれからの時代に不可欠といえるでしょう。