第73回 「パワー」から「コミュニケーション」へ(4)~親と子の距離~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年2月3日
前回は「罪悪感による支配」により、家族というものが非常に危険な場となっていくことについて触れました。家族の一人一人に余裕がなく、自分を保つことに汲々としているとき、「暴力」や「罪悪感」による支配が大きな問題となってきます。
《対人恐怖》
たとえば家庭内暴力児やひきこもりなどを今やっている若者は、罪悪感や申し訳なさに追い詰められている“元良い子”たちが大半です。親や周囲によって刷り込まれた“理想”や“あるべき姿”といった「親が安心する形」にこだわり、常に緊張を抱えている子どもたちです。彼らは自分が圧倒的な力を発揮して、他者に自分の存在を認めさせることができることを夢みています。周囲の要求を全て満たした上でないと自分の表現が許されないとも考えています。いずれにしても圧倒的な頑張りとパワーこそが安心を得られる唯一の手段であると認識しているのです。そしてそれがかなわないとき、罪悪感や緊張に耐えきれない彼らの苦悩は暴力や引きこもりといった形で表面化してくるのです。
しかしそのような理不尽な罪悪感や緊張は、暴力や引きこもりといった目立った問題を抱える子どもたちだけの問題ではありません。パワーを求める時代においては、自分の存在とそこからわいてくる自然な感情や興味などを周囲から常に採点評価の対象にされ、コントロールすることばかりが求められました。そのような時代の雰囲気が家庭に色濃く影響し、自身から自然に生じてくるさまざまな感覚を肯定できず、人の評価を拠り所として頑張る姿勢につながっているのです。そうすると他者の機嫌の責任がすべて自分にあるような感覚になり、それは対人恐怖的な緊張につながってしまうのです。
《おんぶお化けと子泣きジジイ》
そのような親の顔色によるコントロールが慢性化した家では、信じ難いほど子どもは親にこだわりオドオドしています。そしてそれは子どもの成長とともに変化すべき親と子の適切な距離にも影響します。子ども自身の人間関係から学校、就職、結婚などはもちろん日常生活の些細なことまでいちいち文句をつけて介入する親もいれば、ぎゃーぎゃー騒いで子どもの罪悪感や不安をあからさまに煽り、「かわいそうな自分」の思い通りに子どもをコントロールしようとする親もあります。こういう場合は良い親とか悪い親とかいっても仕方ないのです。親も余裕がないわけですから。
しかしそのままではまずい。子どもが30歳になっても、3歳児の時と同じ距離であるとしたら異常以外の何物でもありません。業界では「おんぶお化け」とか「子泣きジジイ」などといって表現される親の態度です。早急に適切な距離を確保すべきですが、なかなかそれができません。それは親に逆らうと親を失うと思っているからです。虐待された子ほど親にこだわります。
親とはどんなに失敗した自分も受け入れてくれる、どんな状態でも戻ることのできるホームベースです。その安心感こそ、子どもが自立していく最大の手助けとなるのです。しかし子どもの自我を認めず、子どもを自分の手足のような感覚に陥っている親との近すぎる距離は、親に対する怒りを慢性化させ、恨みにまで至ります。そうするとまさに親を失ってしまうのです。さらに怒りは親だけでなく、親のイメージ通りの良い子になれない自分自身にも向かっていますから、親だけでなく自分をも失ってしまうのです。
成長に応じた距離を取れることは、親と子ども双方に安心感があるときは自然と行えます。そうでない時は距離をとるためのさまざまな工夫を積極的に行う必要があるでしょう。