第72回 「パワー」から「コミュニケーション」へ(3)~理想家族の闇~

《理想家族の落とし穴》

 これまでの時代を支配してきた“パワー志向”のデメリットが顕在化してきました。パワー志向に付き物の“実態のない不安”は際限のない欲求に転換され、自分自身や身近な人間を奴隷のように振り回してしまいます。
 “実態のない不安”とは自分という存在に対する安心感の不足です。このような欠落感により人は休むことができず、いつも何かに焦り、そして自分の感覚に配慮する余裕もないまま「理想に向けて」奔走し続けるのです。
 自己の感覚をベースとしないこのようなスタイルは、相手の顔色ばかりが気になり頭が真っ白になってしまう等の耐え難い緊張感をもたらしたり、一方的な理屈を自分や他者に押しつける行為に結びつきます。そのような現象が濃密に現れる人間関係の場が家族といえます。家族という近しい人間関係において上記のようなスタイルで「安心」や「理想」を目指したとき、家族はもっとも安心から遠い、危険な場となっていくのです。

 

《罪悪感による支配》

 「普通の家族」の中で生じてくるさまざまな問題をこれまでも多数語ってきました。しかし家族を暴力的にコントロールするなどの明らかな逸脱については解決に向けて積極的に動けますが、そのような形でないものは表面化しにくく長期間解決されない傾向にあります。その代表的なものが理不尽な罪悪感による支配です。
 例えばDV加害者の夫でも、あからさまな暴力だけでなく「別れるなら死ぬ」といった類の表現をしばしば用います。観光地などで、愛らしい小動物を抱えた男が現れ「君が100ドルださないとこの動物を殺す」といった形で相手を脅すという妙な犯罪がありますが、それと似ています。相手の連れているペットにナイフを突きつけて金品を脅し取ったら即逮捕でしょうが、自分のペットや自分自身にナイフを突きつけて相手を脅すという行為ははっきりと犯罪と言いにくいわけです(犯罪であることは疑いようもありませんが)。
 このように理不尽な罪悪感を相手に引き起こすことによりコントロールしようとする手法は、相手が正当な怒りを発しにくいため、場合によっては暴力暴言よりも抵抗し難いものとなります。このような支配被支配の関係が家族という人間関係において成立しやすいことは強調しておかねばなりません。
 今私たちがいる「普通の家族」の中で生じるさまざまな問題の大きな要因となるのがこの「罪悪感」です。親は自分が「良い親」であること(「良い親」と周囲に認められること)にこだわります。子どももまた「良い子」という規格に完璧に適合しない自分に焦り、親に対して申し訳なく思ったり、宛のない罪悪感のために委縮したり、イライラしたりしています。
 このような相手の罪悪感を刺激して支配するという手法は、特に親が子に対して用いた場合、著しい弊害を引き起こします。「お前さえ生まれなければ別れていたのに」などという母親の愚痴をいつも聞かされていた子ども、夫婦間の緊張の責任を背負いながら無力感を感じていた子ども、自分が良い子でないと母が「かわいそう」と思い詰めている子ども…。このような子どもたちはみな周囲の余裕のなさの原因を自分という存在の至らなさに求めてしまい、自分の自然な感情や感覚を「私のようなものが…」と全て抑制しようとします。しかしロボットではありませんので完璧に抑制しきれません。そしてさらに罪悪感に追い詰められます。そのようにしてさまざまな問題が生じてくるのです。