第41回 大阪の児童殺傷事件(1)

 今月8日に大阪府池田市の小学校で、37歳の男が次々と児童を刺し、児童8名が死亡、20数名が重軽傷を負うという痛ましい事件が発生しました。逮捕直後の調べに対し、「何もかも嫌になった。何度も自殺を図ったが死にきれない。捕まって死刑にしてほしい」と供述したと報道されました。これを聞いた大半の人は「勝手に一人で死ねばいいじゃないか、この野郎」という感想をもったことでしょう。筆者も一瞬そう思い、そしてすぐに「それができないのが人間か」と思い直しました。

 

《事件の本質》

 いきなり結論をいいますが、この事件の発生要因の根底には「一人」では生きられないという人間の本質が関わっているのです。人間が他者を求めるエネルギーには計り知れないものがあり、よい形で表出されればどこまでも相手を思いやる「愛」となります。しかし、一方で悪霊のようなすさまじい殺戮という形にもつながりうるのです。
 今回の事件は「無視されるより、嫌われ、憎まれた方がまし」という生き方をこれまでしてきた人間が、反社会的行動の「強度」を周囲とのやりとりの中でエスカレートさせていった結果起こったものだと考えられます。反社会的で他人が嫌がる言動というのは、いつも同じ相手に同じようなことをやっていると簡単に無視されてしまいます。そのために次々と対象を変えたり、反社会的行動の「強度」をエスカレートさせることで周囲から無視されることを免れようとするものなのです。

 

《当初から疑わしかった犯人の「精神病」とマスコミが与えた誤解》

 犯人は逮捕直後に「死刑にしてほしい」などといった後、「阪急池田駅で子供ら約100人を包丁でめった切りにした。小学校には行っていない」などと一時犯行を否認し、その後にまた「エリートの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」などと供述しています。時折、あからさまな精神病者的発言をし、しかし精神病者とは明らかに違う事件の運び方や供述の流れは、あの佐賀バスジャック事件の少年を彷彿させます。その後、犯人が「精神病」を意識的に免罪符として使っていた疑いが持たれ、13日には本人自身が「大量の精神安定剤をのんだ」「池田駅で100人ぐらい殺した」などの当初の一連の供述は精神病を装うためであったことを認めるに至りました。
 精神病者が事件を起こすならば、殺さねばならないそれなりの脈絡があるはずです。著しい緊張や恐怖があり、それらの苦しみと関連のある妄想や幻覚があるでしょう。今回の犯人の行動や最初の1~2日間の供述の流れは、精神病者が病的体験に苛まれて行わざるを得なかったと考えるにはあまりにも不自然でした。それにも関わらずマスコミ報道はこの点には全く疑問を差し挟まずに、「精神病」であることを前提にさまざまなことが語られました。その結果、このような犯行が精神病状態で起こり得るという誤解を一般の人々にもたせてしまいました。「精神病」というものを知らない多くの人が、今回の犯人と精神病者をダブらせてしまったのです。それが精神分裂病などを患う方々や彼らを支える家族の方々に与えた苦痛は図り知れません。

 

《「健常者」の犯罪》

 この事件が提起した問題とは「宅間容疑者のような存在をどうとらえ、どう対策をたてるのか」ということです。宅間容疑者は健常者です。少なくとも精神病ではありません。メディア精神科医たちがこのような事件の際によく説明に用いる「人格障害」や「行為障害(子どもの場合)」という診断名は、精神分裂病や躁うつ病といったものに比べて概念がけた違いに曖昧です。「精神病ではないが困ったことをする人達を一応こう呼びましょう」という単なる約束事に過ぎないのです。当然治療法も定まっていません。「反社会性人格障害が原因で事件が起きた」などという説明は「困ったことをする人だから困ったことをした」という循環論法でしかなく、全く対策に結びつかないのです。有用性の高い問題の理解の仕方と対策について、次回以降より具体的に展開していきます。