第42回 大阪の児童殺傷事件(2)

 突然小学校に乱入し児童を無差別に刺殺するという行為はどのように理解すべき問題なのでしょうか。どのように考えれば対策が出てくるのでしょうか。

 

《アノミーという視点》

 この事件の根底には他者とのつながりを求めずにはいられない人間の本質がかかわっていることに前回触れました。ですから他者との連帯が断たれた状態というのは人間にとって非常につらいことであり、100年以上前に書かれた社会学の開祖デュルケームの「自殺論」の中心概念であるアノミー(無規範)という状態はまさにこれを指します。敗戦や革命などによりその社会の中心的規範が根底から崩れると、大変なアノミーが生じます。社会は秩序を失い、人々はつながりを失い、自分自身を見失います。そして自殺が急増するのです。
 今、日本ではアノミーが蔓延しています。「正しい」とだれもが思うような規範が失われているのです。さまざまな利益や趣味やノリを共有する小集団が無数に形成されてはいますが、それらは非常に不安定です。
 このような状況の中で疎外され、社会に正常なつながりを持てなくなった「透明な存在」が続出し、自らの存在意義の確認を求めてさまよいます。このような者にとっては刑法に載っているような規範はもはや意味をなしません。自分が社会に与える影響と人々の注目の程度こそが自分を確認する作業となるのです。それが「反社会的行動」として表れやすいことは言うまでもありません。そしてその究極が「殺人」なのです。

 

《父性と母性》

 規範を規定し人にそれを強制する父性は、人を包み込み抱擁する母性を伴うことにより人を安定感のある秩序へと導きます。母性なき父性は単なる暴力であり、父性なき母性の下に秩序はありえません。
 人は子宮という狭い空間から押し出された時から、「お前はうちの子だ」「お前は社会の一員だ」という父性の宣言に出会います。そのように強制された枠組みの中に十分に自分の存在を認められ、抱擁される母性が存在する限り、人はその枠組みの中で人とつながり、安定した秩序の中で生活することができます。
 非行や反社会的行為というのは普通、際限なく続くものではありません。なぜなら家庭の中での父性が突破されれば、最終的には警察などの国家権力が立ちはだかるからです。そのような強権にルールの下で生きることを強制され、ルールを内に取り込むことで人に認められ、人とつながることを覚えていくのです。
 今回の事件では、犯人の少年時代からの反社会的行為の数々が明らかにされつつあります。そのような中で父性はどうして機能しなかったのでしょうか。それを一般化し、対策を取れるとしたらどのようなことがあるのでしょうか。次回以降も引き続き考えていきたいと思います。