第7回 佐賀バスジャック事件(6)
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2000年10月7日
《死に等しい“透明な存在”》
高校入学直後から学校に行かず、引きこもっていた彼がやっていたインターネット。その中でも彼は非常に分かりやすい形で虚勢を張っています。そして、やはり中学校で級友たちにやられたのと同じように、そのつっぱりをへこまされています。
社会的存在である人間は、程度の差こそあれ、共同体の中で思うような形で存在できないことは、価値がなく無視されることに等しいと考えられるところがあります。その不安に後押しされていた彼にとって、社会の中で“透明な存在”であることは、死に等しいと感じられたことでしょう。
少年は生き残りをかけ、存在のアピールを模索します。酒鬼薔薇(さかきばら)事件など多数の少年事件が彼の興味を引かないわけがありません。彼は次第に“反社会的”であることで、社会に自分の存在をアピールするという考えにとらわれていきました。
《中学校襲撃計画》
今年2月末ごろから、少年は部屋にかぎを掛け、長時間閉じこもるようになりました。そこでさまざまな事件関連の情報をインターネットを用いて集めながら、中学校を襲撃する計画を練っていたようです。3月4日、少年は内閣総理大臣、警察庁長官、文部大臣、日本放送協会会長などに「我、革命を実行する」「貧穢(ひんわい)なる愚者に死を!」などと書いた手紙を投かんします。
「でかいことをやってやる」などとつぶやき、中学校1年生の教室の位置を人に尋ねるなどの言動に不安を感じた母親が、少年と父親がドライブに出掛けたすきに、少年の部屋に入りました。母親がそこで見たものは、多数の刃物やスタンガン、催涙スプレーなどの武器でした。さらに、驚くべき内容のメモを発見します。そこには「さっき犯行声明文を出してきた」「最近もう一人の別のが出てきた。そいつは僕に恐ろしいことを勧める。人を殺せ 人を殺せ だれか僕を止めて下さい」「僕が人を殺した時、自らの破壊によって一生を終える」などと記されていたのです。
紆余曲折を経て、警察が少年を精神科病院に連れていくことになりました。訪れた署員に対し、少年は「いじめられたのに、学校は何もしてくれなかった」などと中学時代に受けたいじめについて、とうとうと訴えたということです。これが事実ならばこのとき彼は、内向させていた怒りの一部を“普通に”外へ表明していたのです。これには、自分の怒りを人に理解してもらいたいという思いがうかがえます。中学校襲撃への躊躇(ちゅうちょ)もあったのでしょう。
この思いを受け止め、加害者に対しルールをもって怒ることを勧め、それを手伝ってくれる人間がいたならば、彼が事件を起こす必然性は薄れていたことでしょう。しかし、その可能性は模索されることはありませんでした。