第10回 子育てを考える(5)~「良い子」たちの苦しみ~
ストレス社会を生きる(日本海新聞) | 2002年4月16日
前回、オウムに集った「良い子」たちについて触れました。今回はもう少しその点について考えたいと思います。
「支配ム被支配」「依存ム被依存」という人間関係を自明なこととして受け入れ、他者や「常識」に支配される形で「良い子」をやっていたのが彼らです。そのような「良い子」は「落ちこぼれ恐怖」のようなものであり、自分が無価値になったり、見捨てられてしまう不安と常に同居しています。その不安は彼らが有名大学に入ろうが、医師や弁護士になろうが解消されず、延々と続くのです。
《「良い子」とカルト》
自分をコントロールして「良い子」になり、それによって人に認められ安心するというスタイルを彼らが疑わない限り、自己コントロールによる達成や承認する人物の「強度」を上げていくしか「これでいい」という安心を手に入れる方法はありません。修行による神秘体験や超能力の獲得、さらに教祖(神のごとき絶対の存在)という「装置」が彼らに必要であったのはこのような理由からであると考えられます。
筆者の周囲にもカルトに入信した人は結構おりますが、真っ白でないことには耐えられないあまりにもピュアな人がほとんどです。まるでカイコが繭の中で一生を過ごそうと必死になっているようで、そうさせてあげたい気もするけど、そりゃ無理だろう…という印象をもつ人たちでした。しかし彼らの考える世間(家族やその価値観の延長上の世界)をカルトの中の価値観と共同体に置き換えたとしても、やはり「これでいい」という安心は得られないのです。
そんな彼らにカルトからの脱会を勧めたとしても、すんなりとは応じません。彼らは「間違って」カルトに入ったのではないのです。こちらの世界が苦しいからあちらにいったということです。そして彼らが容易にカルトにはまった理由は私たちの社会がカルト的であるからです。民主主義といっても名ばかりであり、実質はカルトと同様に「ごちゃごちゃ余計なことを考えずに言うことをきけ」という支配に満ちているのです。そのような社会で言うことを聞いていたのだけれどちっとも幸せにならない人々が「もっと強い自分」や「絶対の親」を求めてカルトに入ったにすぎないのです。
《茶髪はカルトを遠ざける?》
では一方で、絶対にオウムに入りそうもない若者というのも多数いるわけです。彼らはどういうタイプかというと、一方的な押しつけに対して「ウザイ」と距離を取ることができ、「絶対」なんてものをハナから信じていない若者たちです。「○○でなくてはならない」と力む他者に対して「勝手にやれば」という態度をとれる彼らに良い印象をもたない人も多いかもしれません。しかし「良い子」ではなく、他者の価値観を相対化している彼らは、決して他者に支配されませんし、自分を縛るような「重たい」価値観をもとうとしません。茶髪をはじめとする彼らのファッションは自分を身軽にする効果もあるでしょう。少なくともそのようなファッションをする若者たちに面と向かって「そのような欧米コンプレックスは…」と見当外れなことをいう「ウザイ」大人や若オヤジは話しかけてはこないでしょう。
《価値観の異なる他者とつきあう》
これだけ多様な価値観が存在する現在の状況で、自分や他者の価値観を相対化して考えないスタイルでは大きな苦しみを伴います。「挙国一致」で盛り上がることのできた時代とは異なり、確からしい価値観に必死で合わせても、それが思うような承認や人との結び付きにつながらないのです。有名大学への入学が他者の承認や人間関係を保証してくれるわけではありません。有名企業であろうが、フリーターであろうが、人とのつながりは個人のコミュニケーション能力にかかっています。閉塞感少なく、価値観の異なる他者と共存するスキルこそ今後の教育に欠かせない達成課題であるといえます。
そのような他者とのコミュニケーション能力について、次回もう少し考えたいと思います。