第83回 「自己感覚」を生きる(1)~「常識」という名の幻想~

 さまざまな事件や出来事がマスコミで報道されています。それらを受け取る私たちの態度は大きく2つに分けられます。すなわち私たち個人の枠組みにとって「意外なこと」であるのか、「(理解の)範囲内」のことであるのかということです。
 それらのことは報道する側の方も意識しており、前者ならばサスペンスさながらの描き方をして受け手の好奇心を煽りますし、後者ならば「やっぱりそうなんだ」と受け手側が安心できる作りにします。問題は後者に属する記事が多すぎることと、前者のものでもその大半はこれまでの枠組みを守るような方向で終わらせてしまうことです。

 

《解決を阻む幻想擁護》

 「普通の家庭で育った普通の良い子が隣の主婦を殺した」というような事件があると、落としどころは大抵「精神的な病気」などの「異常性」に全てを押しつけた形になります。私たちの考える「普通」という枠組みの妥当性にまで踏み込んだ分析は滅多になされません。両親が離婚しておらず、父も母も変人でなければ「普通」であり「安心」というのは全く根拠のないことです。そのような幻想をベースにして首をひねっていても何も解決しないでしょう。 
 私たちが「普通」と考え「それなら安心」と考えている枠組み自体に大きな問題があるのではないかと考えるのが正攻法ではないでしょうか。

 

《共同幻想の崩壊》

 私たちはよく考えると根拠のない幻想をあたかも常識のように思い込んでいるところがあります。「幻想」を常に押しつけられていると、それに寄りかかってしか生きれなくなります。自分の感覚で判断したり、表現したりすることに自信がもてなくなってしまうからです。いつも周囲の評価を気にしていて、サッチーの言動や明らかな交通マナー違反のように「非難してよい」と国民的合意(?)ができている時以外には自分の怒りや主張を口にできなくなってしまうのです。
 このようなことに慣れてしまうと思考が停止してしまいます。何らかの原理や偉い人の意見を鵜呑みにして生活している姿はカルト集団や全体主義国家の人たちと同様です。
 オウムに集った若者たちの報道で「有名大学」「医師」「弁護士」「エリート」「美女」などといった言葉がやたら登場し、「なぜこのような若者が」といった形の疑問が呈されました。
 筆者は彼らがオウムに走った理由がわかる気がします。彼らはみな親をはじめとした周囲の人間たちの「幻想」を常に押しつけられてきたのです。一流大学に入れば、有名企業に就職できれば、医者や弁護士になれば「幸せになれる」というもはや現在では通用しない幻想を注入され続けたのが彼らです。しかしそのようなかつての共同幻想はほとんど崩壊しており、彼らは梯子を外された形になってしまっていたのです。しかしいつも「あなたのために」という形で押しつけてきた親たちに面と向かって「ウソじゃないか」という抗議はできません。なにせ自分の感覚を信じられないのですから。
 そのような彼らが「このオジサン(教祖)の方が信じられる」と言い出したのだと考えられます。