第12回 小6同級生殺人が象徴するもの(12)~子どもを絶望させない社会に向けて~
“止まり木”求め さまよう心II(山陰中央新報) | 2004年12月22日
《「マトモ」でいられない社会》
今回の事件が象徴することは、現在私たちが生きる社会が、いかに「コミュニケーションの不能と絶望」をもたらしやすいかということです。子どもはカナリアのように社会の有毒ガスに敏感に反応しています。その「有毒ガス」を解析せず、最初に落ちたカナリアの精神病理だけを分析しても有効な対策は打てません。
現代社会を覆う「有毒ガス」にはさまざまなものがあります。合理性と効率を尊重するあまり、人が置かれた環境において自分の思考や身体感覚とをきちんと同期させつつ生活できる「マトモさ」がないがしろにされています。子どもたちは「マトモ」に生きることを大人たちに保証されていません。大人の想定外のことに興味を示したり、過剰な周囲からの要求にペースが乱されて立ち止まろうとすると、即座に大人たちに叱責(しっせき)されてしまいます。
学校も価値観が周囲と隔たりが大きく、閉鎖性の高い集団であり、「有毒ガス濃度」が高くなりやすい空間です。家庭に期待できる子どもは「不登校」を行うでしょうし、それができなければ「解離」という心の安定を保つための防衛機制を働かせます。これは元来深刻な心的外傷によりダメージを受けた部分を切り離す形で心の安定を保つ機能です。しかし現在の多くの子どもが深刻な心的外傷とは無関係に、効率と合理性を上げるために感情や感覚、記憶などの統合性を弱めており、その場に都合の良い「自分」を場面に応じて作っています。そのようにしなければ、過剰かつ多様な要求をしてくる周囲に対応できないのです。
かくして学校や家庭に適応している子どもというのは必ずしも「マトモ」であることを意味しません。健康だから適応しているのではなく、適応のために身を削っているのです。高いテンション、思い込みの強さ、視野狭窄(きょうさく)、思考停止などの条件がそろえば適応は容易でしょう。逆に自分の心と身体の納得によってしか動かないような子どもは「問題児」となります。
《加害女児の絶望》
今回の事件は「酒鬼薔薇」事件や佐賀バスジャック事件などとは異なり、無差別な殺人を行ったわけではありません。これは親や親友という支えを外された者が「死」と隣り合わせとなり、自殺か他殺しかありえないような状態で生じるタイプの殺人であると考えられます。無論これは親友であった被害女児の落ち度ではありません。学校や家庭がこれまで述べてきたような理由のために〈閉鎖システム〉化しており、加害女児の逃げ場があまりにもなく、また加害女児を支える周囲の大人があまりにも少なすぎたことを問題とすべきでしょう。
思春期の入り口にある不安定な時期、親からの自立に向けた動きを加速させる時期にはさまざまな形で親とは別のつながりや自己肯定の場が必要になります。しかし加害女児にはおそらくミニバスケットボール部と親友であった被害女児を中心とした小グループしかありませんでした。その少ない支えを頼りとして被害女児は思春期を生きていたのです。
そのような加害女児に対し、「勉強への支障」を気にした両親にミニバスケットボール部を辞めさせられてしまいます。大切なつながりが一つ途絶えたまさにその瞬間に、ささいなトラブルから被害女児を中心とする小集団からの支持も失ってしまったのです。それは加害女児にとって間違いなく「死」と隣り合わせの状況であり、自殺も他殺も十分に起こり得たのです。
《閉鎖システムの打破を》
このような事件に向き合うとき、個人の排除や治療の強制を指向するような「診断」ほど有害無益なものはありません。そのようなレッテルは個人を排除することで、社会や学校、家庭といった「周囲」の不適切さを温存させてしまいます。そしてさらなる管理や干渉に走らせ、事態を一層悪化させてしまうのです。
今考えるべきなのは、個人を容易に「コミュニケーションの不能と絶望」に至らせてしまう現在の家庭や学校の〈閉鎖システム〉状況を打破できる対策です。そして複数かつ多様な「大人の支え」をどのように子どもたちに保証するのかということを併せて考えねばなりません。