第9回 子育てを考える(4)~パワーとコントロールの社会~
ストレス社会を生きる(日本海新聞) | 2002年4月2日
子育てとは文字どおり次世代を育むものです。どのような方針をもってこれを行っていくのかということは、まさに国民的議論に値することです。一昔前までならば間違いなく「お国のためになる人材」をつくることでした。すなわち良い軍人(企業戦士)やその良き妻(良妻賢母)を作るための教育です。それに国民がみな同意していたのです。
また教育はその社会状況をそのまま反映します。その社会に生きる人々が何を「善きもの」「幸福なこと」として生活しているかということが教育方針に如実に表現されるのです。それでは今の私たちの社会とはどのような状況なのでしょうか。
《「支配-被支配」の社会》
20世紀は「パワー」の時代でした。みな「パワー信仰」という宗教に入信していたようなものです。パワーさえあれば外的なものも内的なものも何でもコントロールできる(その結果安心が得られる)という行動原理です。人に認められる「正当性」はそのようなパワーに賦与されるという発想です。
そのような考え方はわたしたちの社会の隅々まで浸透しています。無論日本だけではありません。最近は他人事でなくなってきた「テロ」という行為の頻発も「パワー信仰」という行動原理に依っています。パワーが劣るものの主張は国際的にあまりにも力をもたないために、弱者はテロという形で「パワー」を示すことに躍起になり、いつしかテロという手段自体が目的化していきます。イスラエルもパレスチナも、ブッシュもビンラディンも、「パワー信仰」という点では共通しているのです。
日本でも「パワー信仰」が生む「支配-被支配」「依存-被依存」という人間関係をベースとする問題が噴出しています。不登校も学級崩壊もそうですし、数十万人にのぼるという「社会的ひきこもり」も同じものをベースにしています。ドメスティックバイオレンス、児童虐待、家庭内暴力、イジメなどもみな同様です。
《「良い子」の危うさ》
象徴的なのがオウムによる一連の事件でしょう。オウムは「支配-被支配」という構造を徹底した社会を作りました。「神のごとき存在」の承認を必要とする多数の若者の存在が、髭づらのオジサンを「教祖」に祭り上げたのです。
オウムに集った若者たちの多くは「こういう子どもを持ちたい」とほとんどの親が思うような「良い子」たちでした。東大や有名企業に入ったり、医師や弁護士になるなどしていた若者たちです。そのようなさまざまな「達成」はしかし「これでいい」という安心感を彼らにもたらしませんでした。「善きこと」「やるべきこと」に日々追われている彼らが「神のごとき存在」を欲し、それによる究極の承認を求めることで真の安寧を手に入れようとしても不思議ではありません。
「何も考えずに、ただやるべきことをやれる自分でありたい」という発想は、支配されている者が自分を支配(コントロール)するために行うものです。これを私たちは自分自身や子どもに要求しているのです。これを私たちより少し上手にできたのがオウムの若者たちであったのです。
自分を「善きもの」に保とうと汲々とする「良い子」たちがサリンをまいてしまうという皮肉な現象を私たちはしっかりと受け止めねばなりません。教祖を死刑にしたら安心できるものではないのです。私たちの子育てや教育に対する考え方、ひいては生き方全般に関わる問題と認識する必要があるでしょう。
次回以降、さらにこの点を考えていきたいと思います。