第81回 「パワー」から「コミュニケーション」へ(12)~オウム事件再考(補)~

《オウム信者の自己不全感》

 オウムの若者たちは「社会的に善きこと」と信じて(信じようと努力しながら)サリンをまきました。彼らの生活は自己コントロールにより自分を「善きもの」に保つことにエネルギーが注がれていました。「善き自分」であることに汲々とする生活をしていた彼らが、究極の承認を与えてくれる「神のごとき存在」を求め、それらしく振舞うオジサンを教祖に祭り上げてしまいました。
 そのような彼らの態度には根深い「自己不信」「自己不全感」がうかがえます。自分自身の存在に対するこのような安心感の乏しさが何ゆえに生じたのかは人それぞれでしょう。たとえば「○○であれば認めてあげる(そうでなければ見捨てる)」という条件付承認がそれをもたらしたのかもしれません。また余裕のない大人の一方的な言動に囲まれている中で「そのままではいけない自分」という思いを強くしたのかもしれません。
 いずれにしても力を抜いたら最期、自分がとんでもないものに「墜ちて」しまい、誰も相手にしてくれなくなるという感覚は共通しています。自分を周囲の雰囲気に迎合した方向でコントロールしていくことがどうしても必要であると彼らは信じています。それをやめることは「怠け」であり、とにかくよくないことであると思い込んでいるのです。しかし彼らが「当然なすべき努力」であると思っていることは自分に対して奴隷的な服従を求める行為であり、親や教祖などの他者が彼らに対して行っている「支配」を自分に向けて行っているに過ぎないのです。自己不全感がもたらす絶えざる不安は常に彼らを「善き自分」に向けたコントロールに追い立てるのです。

 

《「支配-被支配」という人間関係》

 現代を生きる私たちはオウムの若者たちと同様「当然なすべきこと」に日々追われ、自己コントロールに汲々としています。そしてコントロールできない自分や他者を蔑み、緊張を高めています。
 国内で数十万人ともいわれる「社会的ひきこもり」にしても、彼ら(大半が男性です)が過度に「社会性」を意識していることから生じています。これも「パワー」や「コントロール」を重視する社会の態度、特に「男らしさ」についての思い込みが大きく影響しています。いじめ、DV、児童虐待などは、他者をコントロールすることで安心しようとする態度がもたらす不幸な人間関係です。
 今私たちの社会で生じているさまざまな現象はことごとくこのような人間関係に深く根差しているのです。

 

《「親密性」に向けて》

 社会性とは「善きこと」以外は考えないロボットになることではありません。相手の尊重とは自分を捨てることではありません。支配-被支配、依存-被依存という一時の麻薬的な人間関係に慣れた私たちはどうしてもそのあたりを誤解しがちです。その対極にある「親密性」とは「愛するけれど支配しない」というものです。私たちが人間関係において理想とすべきはこちらのほうでしょう。
 さまざまな価値観を相対化した上で、価値観の異なる他者とお互いを尊重し侵害しないという態度が望まれます。どちらがより「正しい」とか「本物」だとかいうパワー志向の発想は排除し、共生のルールをもって生きる覚悟が私たちにとって不可欠です。今後の教育の最重要課題でもありましょう。