第4回 小6同級生殺人が象徴するもの(4)~殺人に伴う「断絶」をみえなくしたもの~

《効率優先社会の理想像は「ロボット」》

 現在の社会システムが「真っ当さ」よりも「スピードや効率」に重点をおいたものであるために、人々が人格の統合性を低下させ「その場限りの適切な行動」を行うことで社会に適応しようとしていることに前回は触れました。
 そのため人はいつも不安で、自分の感覚を感じる余裕もなく、したがって自分にとって心地のよいペースを維持することも、自己主張を行うことも難しくなっています。親も不安なら子も不安、自分の感覚を信じることができません。自分にとって心地のよいペースなどで生活をしていたら「取り残されてしまう」、自己主張などしたら「ワガママといわれ排除されてしまう」といった恐れを常に抱えています。そのような中で私たちは、求められる全てのことに対し面倒や億劫を感じずに常に効率的に行動できるロボットのような人間に自分をしようとしています。しかし都合がよく合理的なだけの存在になろうとすればするほど、「人間」であることを隠し得なくなるのが普通です。

 

《自分と周囲のズレ》

 加害女児は家庭でも学校でも「問題のない子」と認識されていました。 学校でも家庭でも「問題がない」自分であるために大きな無理をしたものと思われます。また小学5年生の時の学級はいわゆる「学級崩壊」状況であったようです。そのような中で自分と周囲とのズレというものをおそらく強烈に意識していたことでしょう。彼女が描いたイラストがいくつか報道されていて、可愛い少女や子犬などが輪郭の崩れなく描かれている一方でそれにヘビが絡みついていたりしています。また子ども同士が殺し合いを命じられるような状況を描いた「バトル・ロワイアル」という映画の自作小説版のようなものを自分のホームページに載せていました。これらは学校や家庭における彼女自身の抑えきれない違和感とそれに伴う不安、恐れ、怒りなどの表明でしょう。それを行うことでガス抜きをしていたのだと思われます。そのような手段がなかったら、不登校や引きこもりが許されない状況の彼女は、おそらく激しい自傷行為などに走っていたのではないでしょうか。いずれにしても「周囲とズレていてもOK」といった周囲の大人による保証が明らかに不足していたことは容易に想像できます。

 

《合理性が生んだ不幸》

 加害女児はなぜ「親友」との多くの体験や温かい感情を想起し得ず、殺してしまったのでしょう。どうして殺人に伴う親や他の友人などとの関係の変化や断絶に思いを至らすことができなかったのでしょう。それは前回にも触れた「解離」という現象と無関係ではありません。これまでずっと親にとっても教師にとっても「全く問題のない子」として適応的に振舞ってきた加害女児は、人格の統合性を犠牲にし、その都度限定された感情や感覚で生活することに慣れていました。他者にいかにみられるかということに非常にこだわる彼女にとって、自分の身体的なことに関するささいな揶揄が、驚くほどの怒りや恨みを惹起したとしてもおかしくはありません。さらにその怒りや恨みに没入してしまい、「この行為を断罪し処刑せねば世界の秩序が保たれない」というような限定された感情や感覚をもち、その維持に都合の悪い記憶や感覚を抑制してしまったのかもしれません。
 合理的に上手く生きることを要求されてきた彼女が、まさにその合理性のために、親友の裏切り(と思われるような言動)に大きく傷つき、相手を殺すかしかなくなったのではないでしょうか。子どもたちに大人が無自覚に求めている合理性について考え直す必要があるでしょう。