第3回 小6同級生殺人が象徴するもの(3)~「問題のない子」と殺人を結ぶもの~
“止まり木”求め さまよう心II(山陰中央新報) | 2004年10月20日
「普通の子」同士のやり取りから、殺人の引き金になり得るような激烈な怒りや憎悪が生じる要因について、「親友」と「インターネット」の観点からこれまで述べました。しかしそのようなことはよくあることです。今回の事件ではその怒りや憎悪が沈静化せず、よりエスカレートして最悪の結末に至っています。怒り憎悪が生じてから数日間、それを増大させていき、殺すことを計画し、実際に人気のない教室に呼び出して背後から頚動脈を切断するという行為に至る経緯を語るにはあまりにも物足りません。
《なぜ人を殺せるのか》
「人を殺す」ということは自分を殺すことと等しく、これまで自分を育み、培ってきた人間関係を全て断ち切ってしまう行為です。親とも友人ともこれまで通りの関係ではいられなくなり、生活も一変することになります。一見普通に生活している少女がこの高い壁を乗り越えてしまうとすれば、2つの要因が考えられます。まず考えられる要因は、子どもが成長する過程において、他者との関わりが自己を尊重したり肯定したりするリソースとなりえていない場合です。人は生まれた直後から周囲とのやりとりの中で、自分とはどういう存在かというイメージを形成していきます。周囲の人間の雰囲気や表情などを自分という存在と結び付け、自己イメージを形成していきます。通常自己価値は周囲の人間の存在と連動しているのであり、他の人間を殺してしまうという発想はもたないし、もてないわけです。この点についての問題は非常に広範かつ深刻であり、次回以降に考えていきたいと思います。
《効率優先社会が生む「解離」》
もうひとつの要因とは、人格の統合性に関係する問題です。ある状況でその場に沿った合理的行動をしていても、場面が変わると「私のあの行動はいったい何だったのだろう」「忘れているわけではないがよくわからない」などということが人格の統合性が弱まるとしばしば生じます。「思いやりのある良い子」がオウムに入った途端に地下鉄にサリンをまくというのも、人格の統合性が失われているからこそ起こり得ます。
人格の統合性が消失したわかりやすい例に解離性同一性障害(多重人格)がありますが、この疾患は元々深刻な心的外傷との関連が深く、その外傷に伴う感情や記憶の部分を分離して自分を保とうとするところから生じています。以前は非常に重度かつ難治なケースが多かった疾患ですが、最近は明瞭な心的外傷が見当たらず、簡単な環境調整を行うだけで容易に治まってしまう軽症例が増えました。「解離」という現象は心の安定を保つため、感情や感覚、記憶などの統合性を弱めるメカニズムですが、現在はこの現象が深刻な心的外傷とは無関係に広範にみられるようになっています。平たく言えば、多くの人が大なり小なり多重人格的な要素をもつようになっているのです。
なぜ「解離」的が現象がこれほど幅広く生じるようになったのでしょう。これは現在の効率を優先する社会と関係します。現在の学校や会社、家族、友人などのグループや個人から発せられる「要求」の多様さや流動性は、昔とは比較になりません。さらに「ほどほど」が許容されず、周囲の求めるペースで行動しないと排斥されそうな雰囲気に満ちています。
そのような中で律儀に適応的にふるまおうとした場合、それは統合された1つの人格として処理できる限界を超えてしまいます。そのために多くの人が人格の統合性を低下させ、会社や学校、家庭などによって人格を使い分けることで「効率的に」生活しているのです。
しかし「効率的に」生活することが幸せとは無関係なことは当然として、そのような人格の統合性が低下した状態には大きな問題があります。それはこれまでの体験やそれに基づく感情までもが統合されないため、その判断と責任性についても「その場限り」のものとなってしまいやすいのです。この問題と事件との関連については次回お話したいと思います。