第2回 小6同級生殺人が象徴するもの(2)~激烈な怒りは何処から生まれたのか~

 今回の事件ではインターネットや交換日記、実生活の中でのさまざまなやりとりがあり、そして殺意が生じています。親友といっていい状態であった加害女児と被害女児の間で何があったのか、少年事件ということもあり詳細の判明は望めません。今回はまず思春期における親友というものの有難さと危うさについて触れたいと思います。

 

《思春期における「親友」》

 思春期は自分というものが定まっていません。芽生え始めた自我をどうやって他者に承認してもらえるかで頭が一杯です。「自分はこれでいいのだ」という安心を求めてさまよい、非常に不安定な状態です。現在の日本社会では12歳どころか30歳代になろうと、定まりにくい状況にあります。学校や会社、家族、友人などとの場において過剰適応を要求されているため、へたに自分が「定まって」しまうとかえって居心地が悪くなってしまうからかもしれません。その場その場で必要なキャラを演じることで周囲からの過剰かつ変化しやすい要求に対応しているのが、現在「問題のなく適応している」若者の大半です。理にはかなっていますが、統合された人格をもたないことによるその場当たりな行動の「軽さ」が問題となります。まさに「ノリ次第で何でもあり」になりやすいのが問題です。しかしこれは若者の問題というよりは、魅力的かつスタンダードな大人像がつかめない社会システムの欠陥としかいいようがありません。
 いずれにしても「こんな自分でいいのだろうか」という不安を、同じような問題を抱える同世代が共感をよせて通じ合うことで「親友」が誕生します。これは危機的な状態で命綱をようやくつかんだことと同様の安堵と喜びです。しかしこの関係は180度転換してしまう危険もはらんでいます。一方の状態に変化が生じたとき、かつての問題を相変わらず抱える他方を攻撃してしまったり、無視するような動きにでることがあります。そこまででなくとも一方の以前とは異なる言動や態度に直面し、「命綱を断ち切られるような」激烈なショックを他方が受けてしまうことがありうるのです。
 通常思春期の子どもは親友だけを命綱にしているわけではありません。親を始めとする周囲の大人たちとの人間関係をリソースに、「自分はこれでいいのだ」という感覚を支えています。しかしそのような周囲の大人からの承認力のあるコミュニケーションが徹底的に欠乏していたとしたら、親友こそが自分を承認しうる本当に唯一の根拠となってしまいます。そのような状況でその唯一の命綱が断ち切られたならば、そのインパクトは計り知れません。自殺や殺人の引き金にも十分なりうるでしょう。

 

《インターネットリテラシー》

 ネット上では自分の日頃は語れない内面をさらすことができます。匿名でなら自分の名前に絡みついたさまざまな制約やコンプレックスから自由になれます。記名であっても相手と対面する緊張から生じる吃音や赤面などの表現上の支障から解放されます。そのようにして表現したものが、他者から受け入れられる体験は多くの若者に大きなメリットを提供しています。おそらく加害女児もそのようなネットを媒介として自分を承認できるというメリットを享受していたと考えられます。
 しかし同じように語っても「何それ」「馬鹿ですか」「キモすぎ」「逝ってしまえ」などの日常とはかけ離れた罵詈雑言が返される場合もあります。ネットにはいろいろな背景の場があり、さまざまな人が多様な目的で利用していることを知らねばなりません。建設的な議論を積み上げる場もあれば、以前バスジャック事件で話題になった『2ちゃんねる』のようにただただ垂れ流しの言葉のやりとりが続くような場もあるのです。そのようなネットにおける常識を踏まえ、むやみに傷つくことなくコミュニケーションツールとして利用できる能力(インターネットリテラシー)が求められます。それを欠いている場合、自分を全否定されてしまったような深刻な傷つきが生じやすくなるでしょう。それが見境のない怒りにつながってしまうかもしれないのです。