第1回 小6同級生殺人が象徴するもの(1)~思考停止に陥らない分析を求めて~
“止まり木”求め さまよう心II(山陰中央新報) | 2004年10月6日
長崎で小6の女児が同級生に頚動脈をカッターで切られて殺害されるという痛ましい事件が起こりました。明確な殺意をもって計画的に実行し、しかも犯行現場で被害者が絶命するまでの約15分間ほど傍らでそれを見守っていたという情報すらあります。
恐ろしい事件です。しかも再び「普通の子」が加害者です。この国では普通の家庭の普通の子どもが極端な事件を起こします。この点についてはいくら強調してもしすぎるということはありません。少年事件の加害者をいくら詳細に調査しても、事件を説明するに足る生育歴上の「問題点」などみつかりません。それは加害少年の親たちにしても同様です。彼らが子どもを放置し、傍若無人な態度を許し、周囲へ適応させる努力をまったく欠いているような育児をしてきたわけではないのです。それどころか生真面目に周囲に適応しようとしてきた人たちであり、子どもにも生真面目に「普通」を求めていたようにみえます。
《思考停止の打破を》
これをもし中学生の男児がやっていたなら、おそらく少年犯罪厳罰化の大合唱がおこっているでしょう。今回は小学生の女児であったためか、女児らの直接の確執の場となったインターネットや女児が傾倒していたというバトルロワイアルという少年らの暴力が描かれた映画についてさまざまなことが言われています。その大半はつまるところ何らかの規制が必要ではないかという話に落ち着きます。
動機が見通しにくい犯罪が生じると、「以前はなかったのだから」ということで、目新しいものをやたらと規制しようとしたり、厳罰化が声高に語られます。気持ちは理解できます。しかしこの連載では厳罰化やメディア規制を叫んで溜飲を下げたり、加害者に特別な「病名」をつけて強引に安心させて忘却を促したりするつもりはありません。そのような文章は人を思考停止させるだけでしかないからです。
自分や自分の子どもらが幸福に生活し、そしてそれを維持しうる社会システムの見通しを持ちたいという欲求が本稿を執筆する筆者のモチベーションです。こうした活動をしていないと、筆者もまた思考停止に流れてしまうのです。是非とも読者のみなさんにも簡単には安心せずに、不安をできるだけ維持しながら付き合っていただきたいと考えています。
《事件に至るステップ》
今回の事件は「ネット上のトラブル」→「激烈な怒り」→「冷静かつ計画的な殺人」というステップを踏んでいます。各ステップを隔てるギャップの大きさは、後者の「激烈な怒り」から「冷静かつ計画的な殺人」の部分がとびぬけています。いくら激怒しても「他者を殺す」という発想を通常はもちません。以前テレビ番組で「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問を普通の高校生が発言し、出演していた識者たちが絶句、その後も雑誌が特集を組むなどする騒動に発展したことがありました。このような質問が普通の高校生から出てくる現象と今回の事件は無関係ではありません。この部分については後に教育の問題もからめ徹底的に論じる予定です。
次回はまず最初のステップすなわちインターネット上のやり取りによりむやみに傷ついたり、激烈な怒りが生じてしまうという現象について考えてみたいと思います。