第138回 幸福への処方箋(下)~人はなぜ心病むのか~

 4年近く続いたこの連載も今回で一休みさせていただきます。振り返ってみて、よくもまあこれだけ書いたものだと我ながら驚いています。筆者は臨床医であり、日々多数の人とお会いします。そしてさまざまな心身の不調に対し、バランスを回復するためのお手伝いをしています。そのような毎日の中で、「体の問題」「心の問題」「社会の問題」「地球環境の問題」などいろいろなレベルの問題がみな「同じ構造」であり、お互いに影響を及ぼしあって悪循環になっているのだと考えるようになりました。そのような思索を発信してきたのが「止まり木」です。
 社会問題にしても心身疾患にしても「悪者を特定し、それを排除する」という考え方で解決することはまずありません。そのような「合理的な思考様式」こそが、かえって問題を泥沼化させていきます。
 前回は現代人の「合理的な」思考と努力が、地球環境から体内環境まで、さまざまなレベルでアンバランスを引き起こしていることを述べました。今回はこのような事態に至った経緯を「心の問題」に焦点をあてながら考えてみたいと思います。

 

《心の人類史》

 一般に「歴史」というと、ここ数千年の人間の権力闘争の歴史です。野性の動植物の狩猟採集を基盤とする社会では、人は自然の恵みによって「生かされている」という感覚であったと推測されます。その環境の中で無理なく生きられるだけの数の人間が、無理なく生活していたのです。現代的な悩みの起源はおそらく農耕を行うようになってからです。人は自然をコントロールするためのパワーを求めるようになりました。蓄財が可能となり、権力と争いが生まれました。その後のヒトの歴史は、「心の平安を求めつつ、いつも戦っている」という悲劇の繰り返しです。本来はコントロールできるはずもないことをコントロールしようとすることで、人の心は病み、苦しんできました。より大きなパワーがあれば全ては解決すると考え、「弱き」を蔑み、「強き」を尊んできたのです。

 

《人生の「プロ」などいない》

 そのような中でいつしか人は「人間の価値」というようなものを考えるようになりました。今、日本人の大半は「自分の価値」というものに敏感で、それを高めようと出来る限りの努力をしています。勉強も仕事もできればできるほどよい。カラオケもゴルフも上手いほどよい。全てにおいてプロ級なら満足できます。女性ならば、体重は少ないほどよく、仕事ができ、家事も完璧で、育てた子どもは優秀で・・・などというイメージを目指して強迫的になっています。まるで自分という「商品」にクレームがつくのをおそれているかのようです。
 そのように自分を「商品」のようにみてしまい、常に自分や人をコントロールしようとしているのが現代人です。このようであるからこそ、現代人は外部の「敵」と戦っているか、自分の内の欠点を「敵」として常にイライラしたり投げやりになっていることが多いのです。罪悪感のようなものも人をずいぶん苦しめますが、これもまた自分がそれを「コントロールできる」と考えているから起こってきます。
 このように人の心の苦しみは、自然を敵とし、本来コントロールできないものをコントロールしようという根本的な無理から生じていると考えられます。「人間の価値」など、どんな理屈をつけようと測ることはできません。人生のプロなどいないのです。頑張ったらよくなるものではありません。下手を下手なりに楽しむべきですし、それができないとするならば「奴隷」と変わりはありません。美味しいものを食べるのと、美味しくものを食べるのは全く次元が違う話です。「美味しいもの」を得ることを追及するあまり、美味しく味わって食べることが不可能になっているのが現代人の特徴です。
 自分も他人も、動物も植物も自然の一部です。生じてくる現象はすべて自然現象です。お付き合いはできてもコントロールなどできるはずがありません。「何事もいい加減に」これが最近の筆者の気分です。