第134回 親子という人間関係(6)~夫婦のコミュニケーション不全と子ども~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2004年2月3日
母性も父性も人間関係の中での安定に必要なものです。無条件に存在を受容されるという母性的な外界との出会いは人間の自己存在の安心の根本です。そしてその成長に応じて他者との幸福な共存のために必要な父性的な枠組みとの出会いとその内在化も人が社会の中で安心して存在するためには欠かせないものです。
《家族外の人間関係における困難》
これまで時代の流れの中で日本において必然的に生じている父性的枠組みの欠如について主にお話してきました。近年の親離れ子離れの困難や不登校、社会的ひきこもりなどとも大きく関係します。発展途上の時代には「こういうふうに頑張っていればいい」という単純な方向性があったのですが、現在の多様な価値観の中で「とにかく勉強していれば何とかなる」「男は仕事さえしていればいい」などということを真顔でいっている若者がいたら同世代からは「単なるバカ」にみられてしまうでしょう。自分の家族の中だけで通用するようなマイナーな「常識」を振り回していてはまともなコミュニケーションが成立しません。
父性欠如はさまざまな問題を派生させます。たとえば「僕(のような完璧な人間)が君のことを気にかけているのにそれを無視するなど許されない。さっさとこっちを向け」というストーカー的な枠組みで人に迷惑をかけるという極端なケースもでてきます。よくあることとしては、満足できる結果をだせない自分に常に強い不全感を抱えていたり、結果を恐れて何もできなくなり社会生活が困難になったりするといったことがあげられます。
《夫婦のコミュニケーション不全》
中高生の親世代以上では職場やプライベートにおいて人間関係で悩みの多い時期を過ごされた人は非常に多いと思われます。社会環境はここ30年ほどの間に激変しました。高度成長時代のやるべきことが決まっていてそれをやれば単純に社会的にも認められるという時代から、異なる価値観を他人がもっていることを前提とした上でその共生のあり方を常に試行錯誤する時代へと急速に変化したのです。
もともと大人の他人同士の関係である夫婦関係には、今の時代のコミュニケーションの困難さがそのまま反映されています。もともと男性はコミュニケーション能力において女性より劣る場合がなぜか多いのですが、高度成長時代にはわかりやすい社会的役割をこなすことで適応できていました。しかし時代の変化の中で、夫婦という一対一の大人同士の関係をコミュニケーションによりゼロから創造していくというのは非常に困難なことであるといえます。女性側からの求めや不満に対しても「理屈」で返すことに終始し、自分の生活スタイルを変化させてまでそれに応えることをなかなかしません。女性の方は育児やら舅姑らなどとの関係などで負担の大きい時期に夫の理解と援助を必死に期待し、そしてひどく失望します。そして夫との真っ当なコミュニケーションを諦めたまま形だけの夫婦を続けています。諦めてしまえば楽といえば楽ですが、夫婦関係という最も身近な人間関係をこのような薄っぺらなものにしているデメリットはさまざまな形で表面化します。
たとえばそのような夫婦関係を最も身近な人間関係のモデルとして育つ子どもに影響があらわれます。その子はなぜ自己主張が必要なのかを理解できません。他者との自己主張の繰り返しが、お互いの心地よい生活の基礎になるなどとは夢にも思えないでしょう。自分の感覚に目をやることなく周囲と「波風をたてないこと」だけに注意して、嫌なことを嫌といえず、自分の欲求を適切な形で表現しないままでも得られる「安心できる居場所」など、中学生以上ともなればなくなってしまいます。実際このようなコミュニケーション問題を抱え、学校にいる時は一見「明るく」やっているが、しばしば登校できなくなるという子どもは多数いるのです。