第135回 親子という人間関係(7)~親子関係のベースとしての社会性とは~

《急激な時代変化と夫婦関係》

 「これをやっていればよい」という大半の人々に共有される社会的枠組みが消失し、多様な価値観の外界と自分を幸福に共生させる高度のコミュニケーション能力の必要性が近年になって急速に高まりました。当然そのような変化に全員がついていけるはずもありません。多くの人にとって人間関係はそれが楽しいかどうかにかかわらず相当に緊張度を要するものとなりました。
 現代の人と人とのコミュニケーションの困難さがとくに反映されたのが夫婦関係です。コミュニケーションを諦めてしまい、「とにかく波風をたてず」に、まるで家庭という職場の同僚とのつきあいのようになっていたりします。そして実の両親や特定の友人との交流でなんとかバランスをとっていたりします。また諦めることなく怒りをためていた場合は、それが恨みにまで変質してしまい、神経症的な緊張を常に抱えた状態に苦しんでいます。さらに困るのは外の人間関係を「いい人」としてこなすためにためた緊張を夫婦関係の中で赤ん坊的に爆発させてしまう場合です。いわゆるドメスティックバイオレンスの大半はこのようなケースです。パートナーを赤ん坊にとっての「ママ」のようにしてしまい、相手の自由や権利を認めず、自分の思い通りにならないとそのまま怒りを爆発させるなど、暴力的な言動を繰り返すというものです。

 

《子どもの動きあれこれ》

 上のいずれの場合もそのような夫婦関係の状態が親子関係に反映されないわけはありません。子どもにとってもっとも身近な人間関係のモデルが親の人間関係なのです。
 両親のコミュニケーション不全は子どもが自分の気持ちを他者に表現しようという動機づけを奪ってしまいます。真っ当なコミュニケーションは人間関係における緊張度を緩和していくものですが、単純に雰囲気をこわさないようにしているだけの振る舞いをどれだけ続けても居心地はよくなりません。その結果として学校や職場における緊張がいつまでも持続します。特定の居場所でしかリラックスして過ごすことができません。
親が恨みをためているような場合には、おそらく子どもに対しほとんど寛容さがもてなくなり、常に子どもをコントロールしようとしているような状態になりやすいでしょう。子どもは自分の感情を抑圧せざるをえなくなり、強迫的な不安も生じやすくなるでしょう。
 ドメスティックバイオレンスが存在する家庭においては、もはや子どもが真っ当なコミュニケーションを学ぶこと自体に無理があります。どんなに思慮深く頭のよい子どもであったとしても、相手の感情と表現を穏やかに受け入れて判断することは難しいでしょう。自分の感情や考えを相手に適切に表現し、お互いが心地よく生活するというような対人交流をイメージできません。他者とのやりとりのひとつひとつに過度な緊張を伴ってしまいます。他者に異常に気をつかったり親兄弟に暴力がでたりすることもありますが、いずれにしてもパワーによる他者のコントロールが安心の指標になってしまうことは避けられません。

 

《真っ当な社会性が親子関係のベース》

 家庭はひとつの小さな社会であり、通常そこでの行為はある程度の社会性をもってなされます。しかしあまりにも外部に対して閉鎖的で、その家庭での「社会性」が非常に特異なスタイルである場合があります。このような場合、その家庭で子どもが培った「社会性」では外の世界で安心して生活していくためのコミュニケーションができません。
 私たちの親子関係はさまざまであり、それ自体は良い悪いの問題ではありません。しかし家族という小さな社会の中で行われるコミュニケーションの基本は、社会全体で共有できるものでなくてはなりません。それを大人が日々実践しながら、子どもにも教育していく必要があります。
 人に一方的にラベルをはり、貶めたり排除したりすることは「共生」の原理に対する重大なルール違反であることは明確です。いじめも差別も戦争もこのような原則から非難されるべきです。目先の利益でこの原則を国家的にないがしろにしている現状も含めて私たちは考え直していくべきでしょう。教育改革の柱にすべきは、共生のためのコミュニケーションの原則を確実に子どもらに浸透させることであると思います。