第120回 「思考停止」症候群(5)~安心とは何か~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2003年6月1日
前回、極端な合理性や自然界には存在しない「正義―悪」のような単純な図式は危険な「思考停止の罠」であることを述べました。単純な因果律的・直線的思考でばかりものを考えていると、そのうちに思考停止に陥ります。前回、日本政府の姿勢が思考停止に陥っているといいましたが、実は私たちの社会全体がこの傾向にあるのです。
《安心のための緊張という矛盾》
私たちは働くこと、家事をすること、勉強すること、スポーツをすること、レジャーに行くこと、友人と交遊すること、親孝行をすること、痩せること等々際限なく「いいこと」に向かって直線的に邁進しています。しかし「いいこと」を達成すればするだけ「幸福」という結果が約束されているわけではありません。一日中「いいこと」をしようと力んだ場合、その生活にあるのは幸福感ではなく緊張感です。その結果非常に億劫な感覚が生まれてきます。その億劫さを吹き飛ばそうと、さらに「いいこと」に向けて自分を励ましたり、責めたり、脅したり、酒を飲んだり、パチンコや買い物をしたりとさまざまなことをします。しかしその力みのためにますます億劫になります。つまるところ「まあいいや」「なるようになるさ」といって力を抜かないと、結局何も出来なくなってしまうのです。このような悪循環が続いてしまうと、アルコールやパチンコに依存したり、手首を傷つけたり、引きこもりになったり、カルトに走ったりという行動にも結びつきます。オウムの若者たちなどは「いいこと」ばかりの純白の人生を送ろうとしたのだと思われます。
《麻原彰晃と米国》
現在裁判中のオウムの麻原彰晃被告ですが、彼の人生とはとにかく「パワーとコントロールによる安心」を求める典型的な人物でしょう。幼い頃からパワーを求め、東大を出て総理大臣になるのだと希望し、それがダメになると超能力や教祖を演出していました。そして教祖になってしたことは、機関銃やサリンや核兵器など他者の生命をコントロールできるような「パワー」を求めることでした。何のために?それは安心のためです。彼はパワーがないと安心ができなかったのです。そのままの自分では目を背けたくなるほどの「マイナス」価値しかないと信じており、パワーがない自分は誰からも相手にされないという不安に常に追い立てられていたのでしょう。しかしそのように「信じさせて」しまったのは、彼の周囲の大人たちであり、私たちの社会なのです。
米国は自分の安心のために銃が持てる国です。しかし視野の狭い臆病者の目先の安心を保証する制度が、結局この国の市民の安全を脅かしていることは否めません。「銃による安心」と同様の考え方は核による防衛にも反映されています。しかしその「考え方そのもの」を検討せねば、自国の安心もないのではないかという視点もあってしかるべきです。「抹殺すべき絶対の悪」などという存在は自然界にはありません。それは「頭の中」だけにあるものです。したがってそのようなことを前提にいくらハイテクを駆使して考えても結局「脳内ゲーム」でしかありません。
《色即是空、空即是色》
前回にも触れましたが、システム論的な考え方というのは、因果律的・直線的思考とはずいぶん異なります。「原因は結果であり、結果は原因である」「善は悪であり、悪は善である」といった円環的な考え方です。全体が部分を、部分が全体を規定しつつ一定の法則をもって動いているふうに現象を捉えます。自然の生態系をイメージしてください。「肉食獣が偉い」というなら「草食獣の方が偉い」ともいえるのであり、「植物が不要」と言うなら「草食獣も肉食獣も不要」ということになるのです。
人が生きるということに「究極の目的」といったものがあるわけではありません。これさえ手に入れば人生は幸せというようなものがあれば、それを目的とした合理的かつ戦略的な思考が幸せを保証するでしょう。しかしそんなことは実際的ではないのです。人生は常にプロセスであり、移り行くものなのです。安心とは力や合理的思考で勝ち得るものではなく、自分や他者を「受け入れる」ことで得られるものなのです。