第118回 「思考停止」症候群(3)~イラク戦争をめぐって(下)~

《動物行動学からみた戦争》

 動物行動学という学問があります。動物のありのままを観察することで、その行動の意味の仮説を立て、それを実験によって証明していくという面白い学問です。私たち人間の行動もこのような手法で観察するとさまざまなことが見えてきます。この動物行動学を確立したコンラート・ローレンツ氏が、その著作の中で動物には本来備わっているはずの「攻撃と抑制のバランス」を失わせたものとして「武器の発明」をあげています。
 道具を発明する能力というのは、ハイテク文明の基礎です。それが攻撃性に応用されたものが「武器」といえます。ところがこの武器の発明こそが本来の「攻撃性」のもっている意味を失わせてしまっているのです。類人猿の持っている攻撃性とはそもそも相手を抹殺することを目的とはしていません。ゴリラの野外研究をアフリカでやっておられる山極寿一氏が、興味深いことを述べられています。
 「長い間、威嚇と攻撃の象徴のように見なされてきたゴリラの胸たたき(ドラミング)も、相手に自分の殺意を伝えているのではなく、集団の長としてその状況に大いなる不満の意を表明し、相手の抑制を引き出そうとしているのである。集団同士の出あいでは、オスが交互に胸をたたき合った後、なるべく対等の別れを演出しようとする。ドラミングは戦わずに自分を主張する平和な行動であることがわかってきた」
 つまり攻撃性とは本来「仲間と共存するに必要なもの」であったわけです。ところが武器の発達は「ボタンひとつで相手を抹殺」に限りなく近づいています。武器の発達によりヒトの攻撃性は本来の機能とは全く正反対の性質を帯びてきたのです。相手を抹殺してしまったら共存のために「攻撃」する意味もなくなってしまいます。さらに恐ろしいことにある存在を「悪」と決めつけて抹殺した場合、これは自然界で「肉食獣」を抹殺するがごとくであり、予想もつかない結果が待ち受けている可能性があるのです。

 

《合理性の罠》

 アメリカ族とイラク族の首長同士の素手での喧嘩を想定してみてください。どうもこの場合はイラク族の首長の方が強そうですが、その素手による争いならば必ず抑制がかかります。お互いの不満をぶつけ「攻撃」するプロセスでは必ずいろいろな形でのフィードパックが自然と生じるのです。実際ゴリラのオス同士の争いでは、弱者であるメスや子どもたちがその争いに割って入り、双方が面子を失わずに引き分けるといったことが観察されます。
 机上で想定した「正義」と「悪」の戦いが本来の攻撃性の姿ではありません。実体のある生の存在同士が共存の在り方を「話し合っている」のに等しい行為が攻撃性の本来の姿なのです。机上のゲーム以外では「完全な悪」「抹殺すべき者」など存在しないのです。
 素晴らしく合理的な思考が、その得られるはずの素晴らしい結果を無意味にしてしまうということは、多数の因子がからみあったシステムではしばしば起こり得ます。極端に合理的な手法が極端に非合理な結果を生むという罠は、私たちの日常生活でもありふれている現象です。
 「相手をいつでも抹殺できることが自分の安心」という合理的すぎて非合理極まりない理屈を信奉する背景には病的な不安感とパワー信仰があります。このような不気味な「安心感」を基礎に真の安寧が訪れるはずがありません。
 私たちは「共存・共生」のためのルールづくりに着手していかねばなりません。そしてその共有されたルールを土台として、存分に「攻撃性」を発揮すべきなのです。もしそのようにできない場合、「サルより劣る」人類は最大の非合理に直面することでしょう。