第110回 心の病とはなにか(2)~病の中の健康性~

 前回、精神医学・心理学などの心の学問や医療について、その役割と限界について触れました。現行の社会、職場、学校、家族などのシステムにおいて不適応をおこした個人に対し、さまざまな形で適応の手助けをするものが精神医学や心理学です。このように個人や家族などの限定された範囲にむけて、認知・感情・思考・体質や神経伝達物質のバランス、他の身体的状態などを勘案し、それらに働きかけて適応を促していきます。

 

《「適応」に向けた無理》

 適応というのは「根性」で行うものではありません。その環境の中で、周囲からの要請をどのように捉え、どのように対処し、どのように落とし所をつけ、どのような形で安心とリラックスを得ていくのか。その緊張とリラックスのバランスが大切です。一時的ならばかなり無理の大きい要請であっても「火事場の馬鹿力」でしのげますが、そのような無理が常態化してしまうと遅かれ早かれその人の出やすい形で「このままでは壊れてしまう」という兆候が生じてきます。それが不眠であったり、意欲の低下であったり、胃痛や頭痛であったりするのです。
 精神医学的な失調は、適応に際して無理が大きすぎると生じてきます。それはうつ病やパニック障害や統合失調症といったいかにも「心の病」という形だけでなく、さまざまな身体的失調のベースとなっています。このことは地域において人々の身体不調を第一線で診るさまざまな科の医師の実感とも重なるでしょう。

 

《病の中の健康性、健康性の中の病》

 そのような心身の失調に対する治療は、「骨折」などとは違ったものになります。「元通りの無理ができるようになること」を必ずしも目標にしないからです。むしろ「せっかく病気になったのに(元通りの生活になってしまっては)もったいない」とよく筆者はいいます。「無理ができる人が幸せか、できない人が幸せかわかりませんよ」ともいいます。「生き方を変える大きなチャンス」を単なる病気として無かったことにするのはやはり大変「もったいない」ことであるでしょう。
 さまざまな環境があり、さまざまな特徴を備えた個人があります。そこにおける不適応は健康性の表われであるという見方もできます。
 「すべてが面倒。何をするのもダルイ」といっている高校生がいたとしましょう。でもそれは「怠けた性格」でも「やる気のでない病気」でもなく、興味のないことを、あまりに自分のペースに合致しない形で、常に自分に強いているために生じているのかもしれません。周囲からの要請をいつも何の疑問もはさまずに随時実行できるとしたらかなり不健康です。正常な発達をしているからこそ「ダルイ」のかもしれません。問題解決の鍵は、本人が「とにかくやるべきこと」であると焦っている事柄の優先順位を相対化し、少なくとも自分の興味の方向性が自覚できる程度のゆとりや試行錯誤を保証することでしょう。子どものそのような作業に関わる親にも、自分の生き方に関する新たな発見が多数あるかもしれません。
 子どもの問題にしろ、自分自身の問題にしろ、常に「やるべきこと」に追い立てられ、自分の気持ちの動きや体調を顧みるゆとりもなく過ごしてきた自分を、新たに考え直すきっかけが「病」であることはよくあることです。今ある学校や会社が絶対ではないことは明白であり、自分が所属するシステムとして「合っているか」を考えてみることも必要でしょう。
 またよりマクロな視点でいうならば、多数の個人が所属する今の学校制度などの社会システムの妥当性の検証も常に必要でしょう。そのようなことが適切に行われればひきこもり100万人だの、自殺獅3万人だのという事態は避けられるでありましょう。これらの数字は「個人の問題」として全てに対処するには無理があることを示しているのです。