第106回 幸福の行方(6)~アノミーへの処方箋(上)~

 包括的な共同体が綻びるにつれ、日本における根本的な規範の脆弱化が止めどもなく進行しており、善悪基準が時と場合によって容易に変化してしまう状況であることに前回触れました。
 包括的な共同体の復活も、宗教的な倫理統制も困難な日本においては、現在のようなアノミーの回復には教育の大改革は欠かせないでしょう。

 

《戦後民主教育がもたらしたもの》

 戦後民主教育とは一言で要約すれば「決められたことをキチンとやる」という受動的態度を基本として、高度な知識をつめこむ教育です。そのような教育で成績上位を納めた者たちは、大企業の社員、お役人、教師、医師などとして働きました。社会が発展途上であったこともあり、すでに決められたレールを全速力で走るという態度はあたかも日本人の新しい道徳となった観があり、それが日本の急速な発展を促しました。しかし今やそれこそが経済の深刻な停滞要因となっています。
 資本主義の精神とは「ベンチャー」であり、新しい価値を創造していく起業家精神がその発展に寄与します。決められたことを決められた範囲できちんとこなすという受動的な態度の人材はお役人としては最適でも、政治家や起業家としては最悪といえます。ベンチャーの気概を失った社会は停滞し、経済も政治も活力を失います。そのような状況でさらに子どもを狭小な枠組みに押し込めようとするような教育が続けば破綻は加速度的に進むしかありません。今の日本はまさにその状態といえるでしょう。
 現在の教育は「お役人的」な人材を作ることに焦点づけられています。「お役人的」であるということは「人(客)の喜ぶ新しい価値を創造する」ということとは全く縁がないということです。このような仕事には有名な「パーキンソンの法則」が働きます。すなわち「役人の数は仕事量に関係なく一定の割合で増えていく。組織の拡大と複雑化を生じ、それは腐敗を招く」といったものです。
 日本では終身雇用システムに加えて官僚は公益(省益?)法人や関連業界への天下り、民は系列会社、特殊法人、外郭団体などが最後まで面倒をみるという具合でした。しかし「いわれた通りにしていれば悪いようにはしない」などというシステムの中、個人の自己感覚を抑圧し、周囲の顔色と雰囲気をみながら「上手く」生きることに果たしてどれだけの幸福があるのでしょうか。

 

《場当たり的な規範と連帯》

 周囲の雰囲気や顔色をみるというのは「公的」であることを意味しません。旧厚生省の官僚が天下り先の製薬業界との絡みから殺人的判断をしてしまったり、地下鉄サリン事件の実行犯が抵抗を感じながらも結局犯行を行ってしまったりするのをみれば、それは一目瞭然でしょう。オウムという教団や厚生省という場の雰囲気に親和的な行動は、他者の生死を左右する極端に反社会的な行動であったのです。
 このようなことが生じてしまうのは、真の公共とその重要さを教えない日本の教育に原因があります。上記の厚生官僚やオウム信者は特殊な日本人とはいえません。私たちは今、あまりにも場当たり的な「規範」しか持てないでいるのです。そのことは同時に場当たり的な人間関係(連帯)しか持てないということを意味します。これは非常に不幸な状態であるといえるのです。