第105回 幸福の行方(5)~共同体の変化とアノミー~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年11月10日
何が正しくて何が悪いことなのかという「父性原理」は人を安定させ、方向性をつけさせる「重力」のようなものです。これが機能していない「アノミー」においては、人の行動は糸の切れた凧のようになってしまいます。「わけのわからない」大学紛争、校内暴力、深刻なイジメ、親殺し子殺し、地下鉄サリン事件など、まともな動機もわからない数々の現象が戦後絶え間なく発生しています。この上なく真面目な分別ある年齢の医師が「地下鉄に毒をまいてこい」といわれ、その通りにしてしまう。この上なく現在の教育制度の中で真面目にやってきた官僚が、付き合いの深い製薬業界とのからみから「間接的殺人」ともいえる判断をしてしまう。そういったことが数限りなく生じている現状をみれば日本におけるアノミーが深刻化していることは明白です。今の日本における教育で最高の評価を受けても最低の行動規範も保証されていないのです。何が良いことで何が悪いことかを全く教えない教育制度がこのままでよいはずがありません。一部の例外的な人格の持ち主が事件を起こしているのではなく、日本で普通に教育を受けた「普通の人」がその場の雰囲気で殺人すら行えてしまう状況なのだと考えてよいのではないでしょうか。それゆえにこの上なく恐ろしいのです。
《共同体の今昔》
日本人の行動規範は、キリスト教やイスラム教の国のような「絶対的な神」による倫理とものではなく、共同体の「道徳」で規定されていました。それが日本人の規範であり人々を結びつけていました。またそのような連帯があるからこそ、その規範(道徳)も機能していました。
「昔の父親は権威があったが今の男性はだらしない」というようなことをよく言われますが、元々日本には絶対的な「父なる神」のアナロジーとしての強い父権などは存在していません。今も昔も父親はタダの男ですが、かつての日本は共同体が確固としていたので、共同体の道徳(規範)を外から持ち込む父親の発言に重みがあったのです。子ども成長につれて関係が増していく生活圏全般を網羅するような磐石な共同体が背景にあったことが、父親の人間としての魅力やその発言内容を超えた大きな影響力を家庭において父親に与えていたのです。
しかしかつて日本社会に規範を提供していた共同体はいまやかなり衰えており、その規模も機能も非常に限定されたものになっています。新しい共同体が多数出現し、また人々の所属の仕方もかつての「我が町」「我が校」といったものとは異なり、自明でもなく、いつ抜けるかもわからぬ流動的なものになっています。近年著しく多様となった価値観をベースにして、多数かつ構成員などの流動性が高いミニ共同体に、個人は多元的に属して生活しています。しかしこのようなミニ共同体へ流動的に所属しているだけでは、アノミーの解決は難しいといえるでしょう。だからといって現在のような価値観の多様な時代に旧来の包括的な共同体の復活は困難であり、さらに宗教的な倫理で統制することも日本では現実的ではないでしょう。畢竟「何が良いことで何が悪いことなのか」という人間としての芯を作るのは「教育」しかありえません。