第103回 幸福の行方(3)~ガンバリズムと幸福(中)~
“止まり木”求め さまよう心(山陰中央新報) | 2002年10月13日
《共同体的呪縛と見捨てられ不安》
前回は日本人の「頑張って」という言葉の乱用の背景についてお話しました。
家庭でも学校でも会社でもあちこちで用いられています。メジャー種目における国際大会上位選手が、オリンピック代表にでもなった日には真夏のアブラゼミのように周囲から連呼されることでしょう。まるで共同体全体から脅迫されているような感覚に陥るかもしれません。周囲に「次は金だ」などと勝手に求められ、人々の期待という勝手な雛壇にのせられてしまっている彼らの重圧は図り知れません。頑張れずに思い通りの結果がでなければ、共同体全体から見放されてしまうような感覚かもしれません。
東京五輪の銅メダリスト円谷幸吉選手はメキシコ五輪の直前に命を絶ちました。マラソンで頑張れなくなったら世の中のどこにも居場所がないような状況に追いやられていたのでしょうか。享年28歳。痛ましい限りです。
《世代間ギャップ》
それから30年経ち、世の中の状況は大分変わってきました。金メダルもノーベル賞も日本人がとったからといって全国民が無条件に浮かれるという状況ではなくなってきました。共同体への所属意識も変化してきています。しかし短い期間での急速な価値観の多様化のために、世代間ギャップの問題がかつてないほど大きく表面化しています。
世間からのガンバッテコールの中で「オリンピックでは楽しみたい」と発言した水泳選手がメディアから「真剣さがたりない」と叩かれたり、「水泳は団体競技」といって代表から外されたりというようなことが起こったりします。
家庭のレベルにおいても「頑張って勉強しなきゃだめよ」「頑張っていい会社に入らなくちゃいけないよ」「お前が後を継いでくれなければ○○家が途絶えてしまう」「早く結婚してご両親を安心させてあげなくては」「子どもはまだなの。孫の顔くらいみたいわ」等などの言葉を当然のごとく繰り返す旧世代と若年世代とのギャップはやはり顕著になっています。
同じ国民だから、家族だから、親だから、子どもだからと当然のように定番の行動を他者に求める旧世代と、そのような共同体道徳的な行動制限にウンザリしている世代との葛藤がさまざまなレベルで生じているのです。
《共生に向けて》
「頑張って」とは、やるべきことが共同体的に決まっていて、ただやみくもにそれに向かって突き進むことをまるで当然のように強要する言葉です。やるべきかやらざるべきか、どの程度やるのかという個人の好みや選択を無視した言葉でもあります。それゆえに若年世代では嫌う人が大勢いるのです。
個人の属する共同体が多様かつ流動的になり、かつてのような「みんな一緒」「みんな仲間」として一定の行動を求めるという手法はもはや通用しなくなっています。人と人とをつなぐネットワークの在り方や価値観が急速な勢いで多様化してきているのです。
このような状況を若者の「個人化」「わがまま化」だと誤って受け止めた旧世代官僚や政治家が「ボランティア義務化」などというおよそナンセンスなものを発想します。「滅私奉公」を若者に強要すれば、古き良き時代の道徳が蘇るという恐るべき短絡です。このような酒場の戯れ言を政策化するような状態では国家運営は飲酒運転レベルでしかありません。
少なくとも時代を見据え、人それぞれに異なる幸いをどのように実現しやすくするのか、人と人との連帯の多様性とそれらが相互に侵害せずに幸福に共生する「公共」の在り方を論じていく姿勢がないことには、異なる価値観同士の泥仕合になってしまうでしょう。